の為政者たるものが誠意誠心で報国の念に燃えているというだけでは充分でないらしく思われる。いかなる赤誠があっても、それがその人一人の自我に立脚したものであって、そうしてその赤誠を固執し強調するにのみ急であって、環境の趨勢《すうせい》や民心の流露を無視したのでは、到底その機関の円滑な運転は望まれないらしい。内閣にしてもその閣僚の一人一人がいかに人間として立派な人がそろっていても、その施政方針がいかに理想的であっても、為政の手首が堅すぎては国運と民心の弦線は決して妙音を発するわけには行かないのではないか。
官海遊泳術というものについてその道に詳しい人の話だというのを伝聞したことがある。それによると学校を卒業して役所へはいって属僚になってもあまり一生懸命にまじめに仕事をするとかえっていけない、そうかと言ってなまけても無論いけないのだそうである。どうもはなはだふに落ちない不都合な話だと思ったのであったが、しかし翻ってこれを善意に解釈してみると、やはり役人たちがめいめい思い思いの赤誠の自我を無理押しし合ったのでは役所という有機的な機関が円滑に運転しないから困るという意味であるらしい。役所でも会社でも言わば一つのオーケストラのようなものであってみれば、そのメンバーが堅い手首でめいめい勝手にはげしい轢音《れきおん》を放散しては困るであろうと思われる。悪く言えば「要領よくごまかす」というはなはだ不祥なことが、よく言えば一つの交響楽の演奏をするということにもなりうる。めいめいがソロをきかせるつもりでは成り立たないのである。
中学時代にはよく「おれは何々主義だ」と言って力こぶを入れることがはやった。かぼちゃを食わぬ主義や、いがくり頭で通す主義や、無帽主義などというのは愛嬌《あいきょう》もあるが、しかし他人の迷惑を考慮に入れない主義もあった。たとえば風呂《ふろ》に入らぬ主義などがそれである。年を取って後までも中学時代に仕入れたそういう種類の主義に義理を立てて忠実に守りつづけて来た人もまれにはあった。これらは珍しい手首の堅い人であろう。しかし手首の柔らかいということは無節操でもなければ卑屈な盲従でもない。自と他とが一つの有機体に結合することによってその結合に可能な最大の効率を上げ、それによって同時に自他二つながらの個性を発揚することでなければならない。
孔子《こうし》や釈迦《しゃか》や耶蘇《やそ》もいろいろなちがった言葉で手首を柔らかく保つことを説いているような気がする。しかし近ごろの新しい思想を説く人の説だというのを聞いていると、まさしくそれとは反対でなければならないことになるらしく見える。なんでも相生の代わりに相剋《そうこく》、協和の代わりに争闘で行かなければうそだというように教えられるのであるらしい。その理論がまだ自分にはよくわからない。
三つの音が協和して一つの和弦《かげん》を構成するということは、三つの音がそれぞれ互いに著しく異なる特徴をもっている、それをいっしょに相戦わせることによってそこに協和音のシンセシスが生ずる。しかしその場合の争闘相剋は争闘のための争闘ではなくて協和のための争闘である。勝手な音を無茶苦茶に衝突させ合ったのではいたずらに耳を痛めるだけであろう。
バイオリンの音を出すのでも、弓と弦との摩擦という、言わば一つの争闘過程によって弦の振動が誘発されるとも考えられる。しかしそれは結局は弦の美しい音を出すための争闘過程であって、決して鋸《のこぎり》の目立てのような、いかなる人間の耳にも不快な音を出すためではないのである。しかし弓を動かす演奏者の手首がわがままに堅くては、それこそ我利我利という不快な音以外の音は出ないであろう。そうしてそういう音では決して聞く人は踊らないであろう。
欧州大戦前におけるカイゼル・ウィルヘルムのドイツ帝国も対外方針の手首が少し堅すぎたように見受けられる。その結果が世界をあのような戦乱の過中《かちゅう》に巻き込んだのではないかという気がする。ともかくもこれにもやはり手首の問題が関係していると言ってもよい。これは盛運の上げ潮に乗った緊張の過ぎた結果であったと思われる。深くかんがみるべきである。
近ごろスペインの舞姫テレジーナの舞踊を見た。これも手首の踊りであるように思われた。そうしてそのあまりに不自然に強調された手首のアクセントが自分には少し強すぎるような気もした。しかしこれがかえっていわゆる近代人の闘争趣味には合うのかもしれないと思われるのであった。
しかし、時代思想がどう変わってもバイオリンの音の出し方には変わりがないのは不思議である。いわゆる思想は流動しても科学的の事実は動かないからであろう。馬の手綱《たづな》のとり方の要領の変わらないのは、千年や二千年ぐらいたっても馬はやはり同じ馬だか
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