婦人解放の悲劇
エンマ・ゴルドマン
伊藤野枝訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)了《あらかじ》め
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(例)又|只管《ひたすら》
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(例)※[#「りっしんべん+危」、15−21]惧
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(例)そも/\
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人類の間に存する種々なる集団の根本的差異を論ずるあらゆる政治及び経済上の学説、階級と種族の差異、女権と男権とを画する全ての人工的境界線などいふ様々なものが在るにもかゝはらず、この様な色々な差異が次第に成長して何時か完全な一つのものとなるの日が来るといふ確信を私が抱いてゐる者であるといふことを了《あらかじ》め含んで置いて頂きたい。
と云つて私はなにも平和条約を提供しやうといふのではない。今日に於ける社会生活の全般を通じて幾多の矛盾せる利害関係の勢力から生じて来る社会的闘争は正しき経済上の原理を基礎とした社会的生活改造の実現と同時に微塵に粉砕せらるゝであらう。
両性及び個人間の平和もしくは調和といふことは必ずしも人類の浅薄なる平等といふ事に基するものではない。或は又個性及び個人の特長を没却するといふことでもない。最近の将来が解決しなければならない今日当面の問題は、如何《どう》すれば人は自分自身であると同時に他の人々と一つになり、全人類と深く感ずると共に各自の個性を維持してゆけるかといふことである。これが群集と個人と、真の民主々義者と個人主義者と、或は男と女との如何を問はず悉《ことごと》く何等の反抗衝突なしに握手し得る根底土台であると私には思はれる。私どもの座右銘は「おたがひに許しあへ。」と云ふのではなく、寧《むし》ろ「おたがひに理解せよ。」と云ふのでなければならない。よく引照せられるスタエル夫人の「全てを理解するといふことは全てを許すことである。」といふ文句に対して私はこれまで特に感心したと思つたことは一度もない。その文句にはなんとなく懺悔室の臭ひがついてゐる。自分の同胞を許すといふ言葉は傲慢なパリサイ人でも云ひさうな文句である。同胞を理解すると云へばそれで沢山だ。婦人解放とその全性に及ぼす影響に対する私の見解の根本的方面がこれによつて略々《ほぼ》読者に推察せらるる事と思ふ。
解放は女子をして最も真なる意味に於て人たらしめなければならない、肯定と活動とを切に欲求する女性中のあらゆるものがその完全な発想を得なければならない。全ての人工的障碍が打破せられなければならない。偉《おおい》なる自由に向ふ大道に数世紀の間横たはつてゐる服従と奴隷の足跡が払拭せられなければならない。
これが婦人解放運動そも/\の目的であつた。然るにその運動の齎《もた》らした結果はと云ふと反つて女子を孤立せしめ、女性にエツセンシヤルである幸福の泉を彼女から奪つてしまつたのである。単なる外形的解放は近代の婦人を人工的の者と化し去つた。それは恰《あた》かもかの仏蘭西《フランス》の植木家の手になるピラミツド形、車輪形或は花環形の奇異なる草木を徒《いたず》らに連想せしむるのみで、女子内部本性の発想によつて達せらるる何等の形をも現はしてはゐないのである。かくの如く人工的に成長せる女性植物の大多数が特に現社会の所謂《いわゆる》智識階級中に発見せらるるのである。
女子のための自由と平等! この言葉が初めてかの高潔勇敢なる人々によつて発言せられた時、どの様な希望と向上心を女性の間に呼び醒したであらう。太陽はあらゆる光輝と栄光をもつて新世界に昇臨せんとした。この世界に於て女子は自己の運命を指導すべく自由ならんとした――其目的は確かに偏見と無智の世界に対し全てのものを賭して戦つた男女先駆者の偉大なる熱誠と、勇気と忍耐と不断の努力とに価したのである。
私の希望も又元よりその目的に向つて進んでゐるのである。しかしながら今日実際解釈せられ、適用せられてゐる婦人の解放はその偉大なる目的に達することを誤つたと私は主張したい。今や、真に自由ならんことを切望する婦人はかの解放より再び自己を解放せざるべからざる必然に面してゐるのである。これは如何にもパラドキシカルに聞えるかも知れない、しかも、それは唯だあまりに真である。
女子は解放を通じて如何なることを成し遂げ得たか? 結果は僅《わず》かに数洲に於ける選挙権の獲得となつて現はれたに過ぎない。(これは米国の場合に就て云つてゐるのです――訳者)それは果して多くの善意を抱ける代表者が予言した如くわが国の政界を純化し得たであらうか? 確かにそうではない。従つて今や健全明晰なる判断を有する人々はかの学校の寄宿舎に於けるが如き口吻をもつて政界の腐敗を論ずることを当然止めなければならない。政治の腐敗は種々なる政治上の人物の徳不徳と何等の交渉もないのである。その原因は全く物質的のものなのである。「奪ふ者は与ふる者よりも幸福なり。」「安く買つて高く売れ。」「汚れたる一つの手は他の汚れたる手を洗ふ。」――政治とは畢竟《ひっきょう》かくの如き座右銘を有する実業界の反映に過ぎないのである。所謂選挙権を有する婦人と雖《いえど》もかゝる政治界を純清ならしむる希望は殆んど絶無なのである。
解放は又男子と平等なる経済的独立を女子に与へた。即ち女子は各自の好む職業に従事することが出来るやうになつた。然しながら女子の過去並に現在の体力修練が男子に拮抗すべき必然力を充分具備して置かなかつたが為に、女子は屡々《しばしば》男子と同等なる市価を得んがためには全神経を緊張させ、全精力を消耗し尽さなければならない。結果は女子の不成効に終つてゐる。女教師、女医者、女弁護士、女建築家、女技師等は男子の競争者の如き信用と報酬とを得てはゐない。而《しか》して偶々《たまたま》その憧憬せる平等に達することを得るにしても一般に身体と精神の健全を犠牲としてゐるのである。かの大多数の婦人労働者の如き、家庭の狭隘と自由の欠乏とが只《た》だ工場、デパアトメントストア、事務所等に移されたるのみとすれば果してどれ程真の独立を得て居るであらうか。のみならず、終日の激しい労働の後、「ホーム、スヰートホーム」を求むる多数の婦人の上に冷やかにして気持悪く、不秩序にして快からざる家庭の重荷が背負はされるのである。光栄ある独立よ? 数百の少女が帳場、ミシン機械或はタイプライタアの後にかくれたる「独立」に痛み疲れて結婚の最初の申込をよろこんで承諾するは少しも怪しむにたらぬことである。彼等は親権の軛《くびき》を脱せんと欲する中流の少女の如く結婚を待ち望んでゐる。単に衣食の道を得せしむる所謂独立とはそのために凡てを犠牲にすることを婦人に期待する程理想的なものでもなく、又欽慕すべきものでもない。私等のあまりに高く賞めすぎる独立とは畢竟婦人の天性、愛の本能、及び母の本能等を鈍磨する方法に過ぎないのである。
それにも関らず、少女労働者の位置はより多く教養を要する職業に従事する一見幸福なるが如く見ゆる姉妹の位置よりもより自然に又人間的である。かの体面を維持するに急がはしき教師、医師、法律家、技師の如き姉妹の内部生活はその実日に日に空虚に涸死しつゝあるのである。
現在に於ける婦人の独立と解放の観念の狭義に解せらるゝこと、自己と社会上の位置を同じうせざる男子を恋するの恐怖、恋愛が自己の自由と独立とを奪はんとの※[#「りっしんべん+危」、15−21]惧、母たるの愛と喜びが職業に全力を捧ぐることを障《さまた》げんとの杞憂――全てこれ等の意識の集合は近代の解放せられたる婦人を強迫的に尼僧たらしめんとするのである。人生は彼女の前に其の偉なる清き悲哀と、深く恍惚たらしむる歓喜を抱きながら、少しも彼女の霊魂に触るゝことなくして回転するのである。
大多数の論者によつて解せらるゝが如き、所謂解放は、真の自由なる婦人、愛人、母等の深き情緒中に含まれたる無限の愛と歓喜とを許すにはその範囲があまりに狭隘である。
経済的に自主自由なる婦人の悲劇は経験の過多より生ずるのではなく、反つてその過少に起因してゐるのである。誠に、彼女の社会及び人生に対する智識は過去の姉妹に比して遙かにすぐれてゐる。何故なれば彼女は常に人生の核の欠乏を痛感してゐるからである。それのみが只だ人類の精神を豊富にする。それを把まずしては女子の大多数は単に職業的自働機械と化し終つてしまふのである。
斯《か》くの如き状態の来るべきことは、かの倫理学の領域にあつて、当然男子が女子に卓越した時代の多くの遣物が尚ほ残存してゐるといふことを明らかにした人々によつて夙《つと》に先見せられた。而してその遣物は今なほ有益であると考へられてゐる。更らに重要なる事は、解放せられたる婦人の大多数がその遣物を必用としてゐることである。現存せるあらゆる制度を破壊し社会を更らに進歩せる、更らに完全なるものに改めんとする運動は理論に於て最も急進的思想を抱いてゐる人々によつて行なはれてゐる。然しながら彼等はそれに反し、その日常の行為に於ては月並の俗人と変ることなく体面を装ひ、反対者の讚同を得んことを頻《しき》りに求めてゐる。仮令《たと》へば「財産は盗奪なり、」といふ思想を代表してゐる社会主義者或は無政府主義者の中にすら留針半ダース程の価を返済しないといふので怒り出す者がある。
同型の俗人が又婦人解放運動中にも発見せられるのである。黄色新聞雑誌記者或は浮薄なる文士等は屡々解放せられたる婦人を描いて善良なる市民とその愚図なる妻とを戦慄せしめた。女権拡張運動者は悉く道徳を絶対に無視するヂヨージサンのごとくに描き出されたのである。彼女はその眼中に神聖なる一物をも有せず、両性間の理想的関係に対する何等の尊敬を有せざる女として現はされた。要するに解放とは社会と宗教と道徳とを無視する放恣《ほうし》と罪悪の無分別であるかの如く見做《みな》されたのである。女権論の代表者はかくの如き誤解に対して甚だしく憤激した。彼等はユウモアを欠いてゐるので所謂世俗が解するが如き女とは全然正反対であることを極力弁明せんと務めた。勿論女子が男子の奴隷であつた間は善良にも純潔にもなり得なかつた。然し今では自由でもあり、独立もしてゐるのであるからどれ程自己が善良であるか、そうして社会全般の制度を純化する上にどれ程の効果を与へることが出来るかといふことを証拠立てなければならない。実際、女権論者の運動は多くの旧き縄墨《じょうぼく》を破壊した。然し又同時に新しきものを造り出したのである。偉大なる真の解放運動は単に皮相の自由のみを認めた多数の婦人と面《おも》てを遇はせなかつた。彼等の偏狭なる清教徒的空想は男子を女性の惑乱者或は邪魔者と見做して彼等の情緒生活外に放逐した。如何にも男子は父としての資格以外に――父なくして生るゝ子供はあらざるが故に――如何なる賠償を払つても許さるゝ資格を欠いてゐた。幸にして如何程厳格なる清教徒と雖も母たることの内的欲求を殺す程強くはない。併し女子の自由は男子の自由と離して見ることは出来ない。而して解放せられたる多くの姉妹は自由に生れたる子供はその傍にある男女両者の愛と献身とを必要とするものであるといふ事実を見逃してゐる様に思はれる。近代男女の生活に大なる悲劇を齎らしたるは不幸にして、人間関係に対する此の狭隘なる観念なのである。
今から十五年前に素晴しきノルウエー人ラウラマルホルムのペンから“Woman, a Character Study”といふ著作が現はれた。彼女は現在の婦人解放に対する観念の空虚狭隘なること及び婦人の内部生活に及ぼす其悲劇的結果に対して注意を促がした最初の一人であつた。ラウラマルホルムは彼女の著述の中に天才エレオノラデユーゼ、大数学者兼著述家ソニヤコワレフスカイヤ、夭死せる詩人風の芸術家マリイバシユカアトセフの如き世界的名
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