等は屡々解放せられたる婦人を描いて善良なる市民とその愚図なる妻とを戦慄せしめた。女権拡張運動者は悉く道徳を絶対に無視するヂヨージサンのごとくに描き出されたのである。彼女はその眼中に神聖なる一物をも有せず、両性間の理想的関係に対する何等の尊敬を有せざる女として現はされた。要するに解放とは社会と宗教と道徳とを無視する放恣《ほうし》と罪悪の無分別であるかの如く見做《みな》されたのである。女権論の代表者はかくの如き誤解に対して甚だしく憤激した。彼等はユウモアを欠いてゐるので所謂世俗が解するが如き女とは全然正反対であることを極力弁明せんと務めた。勿論女子が男子の奴隷であつた間は善良にも純潔にもなり得なかつた。然し今では自由でもあり、独立もしてゐるのであるからどれ程自己が善良であるか、そうして社会全般の制度を純化する上にどれ程の効果を与へることが出来るかといふことを証拠立てなければならない。実際、女権論者の運動は多くの旧き縄墨《じょうぼく》を破壊した。然し又同時に新しきものを造り出したのである。偉大なる真の解放運動は単に皮相の自由のみを認めた多数の婦人と面《おも》てを遇はせなかつた。彼等の偏狭なる
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