より自然に又人間的である。かの体面を維持するに急がはしき教師、医師、法律家、技師の如き姉妹の内部生活はその実日に日に空虚に涸死しつゝあるのである。
 現在に於ける婦人の独立と解放の観念の狭義に解せらるゝこと、自己と社会上の位置を同じうせざる男子を恋するの恐怖、恋愛が自己の自由と独立とを奪はんとの※[#「りっしんべん+危」、15−21]惧、母たるの愛と喜びが職業に全力を捧ぐることを障《さまた》げんとの杞憂――全てこれ等の意識の集合は近代の解放せられたる婦人を強迫的に尼僧たらしめんとするのである。人生は彼女の前に其の偉なる清き悲哀と、深く恍惚たらしむる歓喜を抱きながら、少しも彼女の霊魂に触るゝことなくして回転するのである。
 大多数の論者によつて解せらるゝが如き、所謂解放は、真の自由なる婦人、愛人、母等の深き情緒中に含まれたる無限の愛と歓喜とを許すにはその範囲があまりに狭隘である。
 経済的に自主自由なる婦人の悲劇は経験の過多より生ずるのではなく、反つてその過少に起因してゐるのである。誠に、彼女の社会及び人生に対する智識は過去の姉妹に比して遙かにすぐれてゐる。何故なれば彼女は常に人生の核の欠乏を痛感してゐるからである。それのみが只だ人類の精神を豊富にする。それを把まずしては女子の大多数は単に職業的自働機械と化し終つてしまふのである。
 斯《か》くの如き状態の来るべきことは、かの倫理学の領域にあつて、当然男子が女子に卓越した時代の多くの遣物が尚ほ残存してゐるといふことを明らかにした人々によつて夙《つと》に先見せられた。而してその遣物は今なほ有益であると考へられてゐる。更らに重要なる事は、解放せられたる婦人の大多数がその遣物を必用としてゐることである。現存せるあらゆる制度を破壊し社会を更らに進歩せる、更らに完全なるものに改めんとする運動は理論に於て最も急進的思想を抱いてゐる人々によつて行なはれてゐる。然しながら彼等はそれに反し、その日常の行為に於ては月並の俗人と変ることなく体面を装ひ、反対者の讚同を得んことを頻《しき》りに求めてゐる。仮令《たと》へば「財産は盗奪なり、」といふ思想を代表してゐる社会主義者或は無政府主義者の中にすら留針半ダース程の価を返済しないといふので怒り出す者がある。
 同型の俗人が又婦人解放運動中にも発見せられるのである。黄色新聞雑誌記者或は浮薄なる文士
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