ゆくと蘆の間から一人の百姓が鉢巻きをとりながら出て来た。挨拶を交わすと、それはS青年の兄にあたる、この家の主人であった。素朴な落ちつきを持った口重そうな男だ。主人は気の毒そうに私達の裸足を見ながら、S青年が昨日から留守であるという。家の方に歩いて行く後から、山岡は今日訪ねてきた訳を話して、今日立ち退くという新聞の記事は事実かと聞いた。
「は、そういうことにはなっておりますが、何しろこのままで立ち退いては、明日からすぐにもう路頭に迷わなければならないような事情なものですから、――実は弟もそれで出ておるような訳でございますが。」
 彼は遠くの方に眼をやりながら、そこに立ったままで、思いがけない、はっきりした調子で話した。
「私共がここに残りましたのも、最初は村を再興するというつもりであったのですが、何分長い間のことではありますし、工事もずんずん進んで、この通り立派な貯水池になってしまい、その間には当局の人もいろいろに変わりますし、ここを収用する方針についても、県の方で、だんだんに都合のいい決議がありましたり、どうしても、もう私共少数の力ではかなわないのです。しかし、そういってここを立ち退い
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