人も、もっと悲惨な事もあるかもしれないということくらいは、私にも解らない事はない。けれど私は、それ等の事実にかんがみて、直ちに「まず自分の生活をそのように惨めに蹂躙されないように、自分自身の生活から堅固にして行かねばならぬ」と考えてしまうことはできない。もちろん、まず自身の生活に忠実であらねばならぬということは、私達の生活の第一義だとは、私も考えるけれど、私自身の今日までの生活を省みて、本当に自分の生活を意のままにしようと努力して、その努力に相当する結果が、一つでも得られたろうか? 私達は大抵の場合、自分達の努力に幾十倍、幾百倍ともしれない世間に漲った不当な力に圧迫され、防ぎ止められて、一歩も半歩も踏み出すことはおろか、どうかすれば反対に、底の底まで突き落されはね飛ばされなければならなかったではないか? ただ、「正しく、偽わらず、自己を生かさんがために」のみ、どれ程の無駄な努力や苦痛を忍ばねばならなかったかを思えば、いろいろな堪えがたい不当な屈辱をどうして忍ばねばならなかったかを思えば、「不公平を受ける奴は意気地がないからだ」と、ひと口にいい切ってしまうことがどうしてできよう? 私達はまだ、どんな不当な屈辱をでも忍ぶだけの、どんな苦痛をも堪え得る、自分に対する根拠のある信条をも持っていれば、物事の批判をするに都合のいい、いくらかの知識も持っている。意気地がないという、その多数の人達にはそれがない。単に「天道様が見ていらっしゃる」くらいの強いられた、薄弱な拠り処では、彼等の受けている組織立った圧迫には、あまりに見すぼらし過ぎる。それだから「乗ぜられ圧倒されるのが当り前」だけれど、私はそれだからなおさら無知な人達が可愛想でならない。気の毒でならない。人間として持って生まれた生きる権利に何の差別があろう? だのに、なぜ、ただ無知だからといって、その正しい権利が割引されなければならないのか? 恐らく、それに対する答えはただ一つでいい。どんなに無知であろうとも、彼等はその一つのことを知りさえすればいいのだ、だが、彼等はそれを何によって知ればいいのだろう?「彼等自身で探しあてるまで」待つより仕方がないという人もあるだろう? けれど、それまでじっと見ていられぬ者はどうすればいいのだろう?
 自分も生きるためには戦わねばならない。そして同時に、もっと自分よりも可愛想な人々のためにも戦うことはできないであろうか。
 私が今日まで一番自分にとって大切なこととしていた「自己完成」ということが、どんな場合にでもどんな境地においても、自分の生活においての第一の必須条件であるという事は、私にはだんだん考えられなくなってきた。
 私達は本当に、どんな場合にでも、与えられるままの生活で、自分を保護する事より他に出来ないのであろうか。
「虐げられているのは少数の者ばかりじゃないのだ。大部分の人間が、みんな虐げられながら惨めに生きているのだ。今はもう、何だって一番わるい状態になっているのだ。」
 深い溜息といっしょに、私はこんなことしか考えることはできなかった。幾度考えてみても同じことだった。
 けれど、私はこうして自分の考えを逐いまくられると、きまって夢想する他の世界があった。
 ほんの些細なことからでも考え出せば人間の生活の悉ゆる方面に力強く、根深く喰い込み枝葉を茂げらしている誤謬が、自分達の僅かな力で、どうあがいたところで、とても揺ぎもするものではないという絶望のドン底に突き落される。ではどうすればいいだろう? 私はそのたびに、自分の力の及ぶかぎり自分の生活を正しい方に向け正しい方に導こうと努力しているのだということに僅かに自分を慰めて、自分の小さな生活を保ってきた。しかし、第一に私は手近かな、家庭というもののために、不愉快な「忍従」のしつづけであった。種々な場合に、そんな時には何の価値もない些細な家の中の平和のために、そして自分がその家庭の侵入者であるがために、自分の正しい行為やいい分を、遠慮しなければならないことが多かった。その小さな一つ一つが、やがて全生活をうずめてしまう油断のならない一つ一つであることを知りながらでも、その妥協と譲歩はしなければならなかったのだ。そして、それが嵩じてくると、何もかも呪わしく、馬鹿らしく、焦立たしくなるのだった。
「こんなにも苦しんで、私は一体何をしているのだろう。余計な遠慮や気がねをしなければならないような狭い処で、折々思い出したように自分の気持を引ったててみるくらいのことしかできないなんて――」
 同じ事ならこんな誤謬にみちた生活にこびりついていなくたって、いっそもう、何も彼も投げすてて広い自由のための戦いの中に、飛び込んでゆきたいと思うのだった。そのムーブメントの中に飛び込んで行って、力一杯に手ごたえのある事をし
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