のです。みんなが苦しみながら、でもまだ、谷中に残っているのは、一つはそのためでもあるんです。今いる人達の間にもいったんは他へ行って、また戻ってきた人などもあるんだそうです。」
 買収に応じた人達も、残った人達に劣らぬ貧困と迫害の中に暮さなければならなかった。最初はいいかげんな甘言にのせられて、それぞれ移住して、ある者は広い未開の地をあてがわれて、そこを開墾し始めた。しかし、それは一と通りや二通りの困難ではなかった。長い間朝も晩も耕し、高い肥料をやっても、思うような耕地にはならなかった。収穫はなしわずかばかりの金はなくなる。人里遠い荒涼とした知らない土地に、彼らは寒さと飢えにひしひし迫られた。ある者は、たまたま住みよさそうな処に行っても、そこでは土着の人々からきびしい迫害を受けなければならなかった。彼等のたよりは、わずかな金であった。その金がなくなれば、どうすることもできなかった。土を耕すことより他には、何の仕事も彼等は知らないのだ。耕そうにも土地はないし、金はなくなるといえば、彼等はその日からでも路頭に迷わねばならなかった。そうしたはめになって、ある者は再び惨めな村へ帰った。ある者は何のあてもない漂浪者になって離散した。
 M氏によって話される悲惨な事実は、いつまでも尽きなかった。ことに、貯水池についての利害の撞着や、買収を行なうにあたっての多くの醜事実、家屋の強制破壊の際の凄惨な幾多の悲劇、それらがM氏の興奮した口調で話されるのを聞いているうちに、私もいつかその興奮の渦の中に巻き込まれているのであった。そして、それ等の事実の中に何の罪もない、ただ善良な無知な百姓達を惨苦に導く不条理が一つ一つ、はっきりと見出されるのであった。ああ! ここにもこの不条理が無知と善良を虐げているのか。事実はよそごとでもその不条理の横暴はよそごとではない。これをどう見のがせるのであろう? かつてその問題のために一身を捧げてもと、人々を熱中せしめたのも、ただその不条理の暴虐に対する憤激があればこそではあるまいか。それ等の人はどういう気持ちで、その成行きを見ているのであろう?
 M氏は日が暮れてからも、長いこと話していた。夫婦が辞し去ってから、机の前に坐った私は、暫くしてようやく興奮からのがれて、初めて、いくらか余裕のある心持ちで考えてみようとする落ち付きを持つことができた。けれど、その沈静は、私の望むような、批判的な考えの方には導かないで、何となく物悲しい寂しさをもって、絶望的なその村民達の惨めな生活を想像させるのであった。私の心は果てしもなく拡がる想像の中にすべてを忘れて没頭していた。
「おい、何をそんなに考え込んでいるんだい?」
 よほどたってTは、不機嫌な顔をして、私を考えの中から呼び返した。
「何って先刻からのことですよ。」
「なんだ、まだあんなことを考えているのかい。あんなことをいくら考えたってどうなるもんか。それよりもっと自分のことで考えなきゃならないことがうんとあらあ。」
「そんなことは、私だって知っていますよ。だけど他人のことだからといって、考えずにゃいられないから考えているんです。」
 私はムッとしていった。どうにもならない他人のことを考えるひまに、一歩でも自分の生活を進めることを考えるのが本当だということくらい知っている。Tの個人主義的な考えの上からは、私がいつまでも、そんなよそごとを考えているのは、馬鹿馬鹿しいセンティメンタリストのすることとして軽蔑すべきことかもしれない。現に今日私とM氏との間に交わされた話も、彼には普通の雑談として聞かれたにすぎない。けれど、今私を捉えている深い感激は、彼のいわゆる幼稚なセンティメンタリズムは、彼の軽蔑くらいには何としても動かなかった。そればかりではない、今日ばかりはそうした悲惨な話に、無関心なTのエゴイスティックな態度が忌々しくて堪らないのであった。
「他人の事だからといって、決して余計な考えごとじゃない、と私は思いますよ。みんな同じ生きる権利を持って生れた人間ですもの。私たちが、自分の生活をできるだけよくしよう、下らない圧迫や不公平をなるべく受けないように、と想って努力している以上は、他の人だって同じようにつまらない目には遇うまいとしているに違いないんですからね。自分自身だけのことをいっても、そんなに自分ばかりに没頭のできるはずはありませんよ。自分が受けて困る不公平なら、他人だって、やはり困るんですもの。」
「そりゃそうさ。だが、今の世の中では誰だって満足に生活している者はありゃしないんだ。皆それぞれに自分の生活について苦しんでいるんだ。それに他人のことまで気にしていた日には、切りはありゃしないじゃないか。そりゃずいぶん可愛想な目に遇ってる者もあるさ。しかし、そんな酷い目に遇っている奴等は
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