で問題になった土地なんです。」
「ああそうですか。」
 私にもそういわれれば何かの書いたものでT翁という人は知っていた。義人とまでいわれたその老翁が、何かある村のために尽したのだということも朧ろ気ながら知っている。しかしそれ以上のくわしい事は何も知らなかった。
「実は今日その村の人が来ましてね、いろいろ話を聞いてみると実にひどいんです。何だか、とてもじっとしてはいられないので一つ出かけて行って見ようと思うのです。」
 M氏は急に、恐ろしく興奮した顔つきをして、突然にそういって黙った。私には何の事だかいっさい分らなかったけれど、不断何事にも真面目なM氏のひと通りのことではないような話の調子に、まるで外れているのも済まぬような気がして、さぐるようにして聞いた。
「その村に、何かあったのですか?」
「実はその村の人たちが水浸りになって死にそうなんです。水責めに遇っているのですよ。」
「え、どうしてですか?」
「話が少しあとさきになりますが、谷中村というものは、今日ではもうないことになっているんです。旧谷中村は全部堤防で囲まれた貯水池になっているんです。いいかげんな話では解らないでしょうけれど。」
 こういってM氏はまず鉱毒問題というものから話しはじめた。
 谷中村は栃木県の最南端の、茨城と群馬と接近した土地で、渡良瀬という利根の支流の沿岸の村なのであるが、その渡良瀬の水源が足尾の銅山地方にあるので、銅山の鉱毒が渡良瀬川に流れ込んで、沿岸の土地に非常な被害を及ぼした事がある。それが問題となって、長い間物議の種になっていたが、政府の仲介で鉱業主と被害民の間に妥協が成立して、ひとまずそれは片附いたのだ。しかし水源地の銅山の樹が濫伐されたために、年々洪水の被害が絶えないのと、その洪水のたびに、やはり鉱毒が濁水と一緒に流れ込んでくるので、鉱毒問題の余炎がとかく上りやすいので、政府ではその禍根を絶つことに腐心した。
 水害の原因が水源地の濫伐にあることは勿論であるが、栃木、群馬、茨城、埼玉等の諸県にまたがるこの被害のもう一つの原因は、利根の河水の停滞ということにもあった。本流の河水の停滞は支流の渡良瀬、思等の逆流となって、その辺の低地一帯の氾濫となるのであった。そこでその河水の停滞をのぞくために、河底をさらえるということ、その逆流を緩和さすための貯水池をつくることが最善の方法として選
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