成長が生んだ私の恋愛破綻
伊藤野枝
−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「ろくでなし」に傍点]
−−
自分の信ずる事の出来る唯一のものは、やはり自分自身より他にはありません。自分以外の本当に唯一な人と思う人さえ本当にはいっしょに融け合う事はむずかしいのです。
自分の本当の心持――それもなかなか他人には充分に話せるものではありません。どれほど上手に話しても、どれほど多くの言葉を費しても、話すほど損をしたような気持になる事があります。
私の過去の生活――私はそれを他人に話そうとは思いません。私は過去のある時代に、かなりよく自分の生活を人に話しました。それも本当に理解のある親しいと信じた人に。けれども、私が大事な場合に立ったときに、私の話した事だけは理解もし、信じもしてくれましたが、私が話せないそして切ない事にはちっとも真実にふれてはくれませんでした。そして私が話さない事から理解はやぶれてアベコベに反感に代りました。私は他人の理解というもののアテにならぬ事をつくづくさとりました。
その友達は、私に話す事を求めました。しかしそのときには彼女はもう私にかなりな反感を持っていました。他人から注がれた心持に動かされていました。理解の勝れた友達は、私が委細の心持や事情を書けば理解をしてくれる事は私も信じてはいましたが、しかし私はもう話す勇気はありませんでした。そしてそのとき以来、私は自分の事を他人に話すのは止めにしようと思いました。
私はここに私の過去の事を話そうとは思いません。相変わらず私は自分がこの上侮辱される事は辛抱が出来ないのですから。それで、ただ私が過去の破れた結婚生活から受けた教訓だけをお話ししようと考えています。
私の最初の自ら進んでした結婚は破れました。それは私にはずいぶん苦い経験です。しかし、この破滅が何から来たかと考えるとき、私はいつも自分に感謝しています。それはただ、私自身の正しい成長の故だといえるからです。そしてこの結婚について自らを責めなければならぬ点は、私があんまり早く結婚生活にはいったからだという事のみです。結婚生活に対する適確な何の考慮をする事も出来ないような若い時に結婚をしたという過失のみです。
事実、私は結婚をするまでは、あるいはしてからでも、どの方面からいってもまだ本当の子供だったのです。
私の恋の火は燃えました。けれども自ら求めて得た火で燃えたのではありませんでした。それはただ行きあたりばったりに出会った火が燃えついたのです。
結婚をするにも、恋をするにも、何を考えねばならないのか、そんな事はまるで知りませんでした。私は夢のように何の苦もなく、考えもなく、好きだと思い、尊敬した男をいっしょになったのです。そして私は男の気に入るように動きました。
でも、私は、それでも強いられて、いやな結婚をする人達から見れば、自分達がどんなに正しい結婚をし、またどんなに幸福だかという事を誇りにしていました。
私のいい加減な選択でも、私はいい男にぶつかったのです。私は勉強をする事も覚え、読んだり考えたり書いたりする事も覚えました。物を観ることも覚えました。私は今日自分で多少なり物が書けたり、物を観たり、考えたりする事が出来るのは男のおかげだと思っています。T――その男を私はそう呼びます――は立派な頭の持主です。もう久しい間知っているほどの人から大分いろいろな批難があります。しかし、私は彼がどんなろくでなし[#「ろくでなし」に傍点]な真似をして歩いているとしても、ちょっとそこらにころがっている利口ぶった男共よりどれほど立派な考えを持っているかしれないと信じています。
彼と結婚をするまではまるで無知な子供であった私は足掛け五年の間に彼に導かれ、教育されて、どうにか育ってきたのです。どうにか人間らしく物を考える事が出来るようになってきたのです。もちろん、彼にばかり教育されてきたのではなく、周囲の影響も充分大きな教育をしてくれたのも見のがす事は出来ません。
しかし、私にそのよき周囲を持たせたのもやはり彼なのです。彼は私をつとめて外に出して私が自分の生長の糧を得る機会を多くしてくれたのです。
が、私がようやく一人前の人間として彼に相対しはじめた時、二人がまるで違った人間だという事がはっきりしてきたのです。そしてこの性格のはげしい相違が、二人のお互の理解をもってしてもふせぎ切れないような日がだんだんに迫ってきたのです。
Tはかなり深い憂鬱な処をもっていました。そしてまた都会人らしいエゴイスティックな傾向を持っていました。この二つの大きな濃い彼の影を、私は最初少しも知りませんでした。私にはまったく見えなかったのです。そしてこの二つは私との結婚後少ししてからだんだんに広がりはじめたのです。
ちょうどその時分文壇思想界は個人主義思想の最も高調されている時分でした。彼のエゴイスティックな傾向は、極端な個人主義の理屈といっしょになってだんだんに深味にはいってきたのです。
私もやはりその思想に育てられたのです。私の属していた青鞜社の人々の思想もそれでした。私共の主張は個人の自由を要求する事でした。しかもこの主張に関しての実際の大きな運動を起こすには各々の個人がもっと完成されなければならないというのでした。私共は実際にいくらかの対社会的な運動をしながらもなおかつ、それよりも各自の自己完成を一義としていたくらいでした。
当時青鞜社同人の名前はかなりよく世間の人に知られていました。そして女という物珍らしさから、よく他の新聞や雑誌に名前を出すことがありました。機関誌の「青鞜」ではない、他の雑誌にちょいちょい名前が出るようになった頃から、私は何となく皮肉な成行きを気にするようになりました。
本当にまだ無力な幼稚な自分の名があまりに世間的に知られる事が恐いのと同時に、なぜ充分に認められてもいいTが認められないのかという事が、始終私を苦しめました。そして、そのTの名前に対するチョイチョイした軽侮が私にはだんだん悲しいような腹立たしいような気持になってきたのです。続いてまた、彼が少しも自ら何の努力もしない事がはがゆくなってきたのでした。
しかし、Tの気持はもうこの時にいい加減こじれていたのです。彼はただ極端なエゴイスティックな自分の心持の中にだけ自分の生活を見出していたのです。どんな事実も、彼に対他的な激情を起こさす事はむずかしいのでした。それに私の気がついた時には、もう彼はそこから動こうとはしなかったのでした。
私は、かなり長い間、彼のこの感情にならされたのでした。私は一種のあきらめで彼の生活にくっついていたのです。
たまに、何かの事から、彼を非難する事はあっても、理屈を持ってこられると私はもう何にもいい得ないのでした。そうしてとにかくかなり長い間私は辛抱して、彼を見ていたのです。私ばかりではなく、彼の母も、兄妹も。そして母や兄妹は今も同じで彼を見ているにちがいありません。彼と別れた私はもう何にも、気にはかからなくてもいいのです。けれど、私は、私の子供の父親として、折々彼の生活に私の心持が引っかかるのをどうする事も出来ません。私もまた彼と直接には無関係でありながら、なおまた、ますます調子のちがった彼の生活を気にする事があるのです。
私は彼の妙な引っこみ思案に対して遠慮は少しもしませんでした。私は彼の才能を信じていましたから。彼は実力を持っていると信じていましたから。文壇にその頃幅をきかせている若い人達にくらべてもけっして劣る処はないと信じていましたから。私は少しも遠慮をする必要はなかったのです。しかし、何といっても、彼が文壇的に少しも野心を持たないのなら別ですが、相応に乗り出したい気もし、自分を信じてもいながら、妙にひっこんでいるのに対して、私の心持は少しずつ批評的になってきたのでした。
その間にも私の前にはいろんな困難が次から次へと押しよせてきました。
私共の生活の第一番の困難は、貧乏という事でした。Tは私を救うために失職しました。家にはその時から収入が途絶えたのです。そして私はその貧乏の中にとび込んだのです。私の親達も貧乏でしたがそれでも私は自分で直接に貧乏のつらさというものを少しも知りませんでした。もっとも、その時以来ずいぶん貧乏をしてきましたが、貧乏だけならちっともつらい事ではないと今もまだ思っているくらいですが。しかしとにかく初めての貧乏にずいぶんつらい思いをしたのは本当です。私は彼の母や妹たちがどうかしてそんなにいやな目に会わないようにしたいと思いました。けれども、私自身が何か働けるのならですが何にも出来ないのです。ではといって、彼はもう外に出て他人の下で働くのは真っ平だというのですからそれもすすめる訳にはゆきません。
貧乏がだんだんひどくなってきますと、珍らしいくらいにあきらめのいい年寄りもたまには愚痴も小言もいいます。そしてそれに身を切られるほどに辛いのは私だけなんです。彼はそれは呑気でした。明日たべるものがないといっても、「仕方がない」と手を束ねている事が出来るのです。こんな貧乏の中にいてはそういう人がいちばん割がいいのです。
あとから考えれば、ずいぶんいろんな事もありますが、どんなに利己的な態度をされても、その頃まで私が彼の態度に対して批評的になれなかったのは事実でした。私はどんな場合にも彼から独立し得なかったのです。彼に指導され教えられてきて出来た頭はどうしても彼に隷属して離れなかったのです。
いろいろな困難が一つ一つ自分の身にこたえ、考えが一つ一つ自分だけの考えになってきたのは、子供を生んでからでした。子供が出来てからようやく私は一人前になったのです。私は子供がどんなに可愛かったかしれません。そして子供の母親として観、子供の母親として考えるすべての事は以前とはだんだんちがってきました。
彼の頑固なまでの利己的態度をはっきり見得るようになったのはその子供に対する態度からでした。私は子供が少しずつ育ってくるにつれて、彼にはとうてい頼れないと思ったのでした。自分がどんなに無力であるかを考えると私は心細くてたまりませんでした。しかし子供を持った三十を越した男が、今もまだ、自分が何をしていいか分らないといって手をこまねいているのを見ると情なくもなりましたが、どうかして自分がしっかりしなくてはならないのだという心持に鞭韃されるのでした。
私のこの心持が強くなってくると同時にTの心持はますます隠遁的になってくるのでした。彼は家の中の、私と母との間のちょっとした感情のこじれやその他のチョッとした事にも、自分が口を出すことを厭がるようにまでなったのです。それでも、私はまだ、彼と別れようなどと思ったことはなかったのでした。また、彼の利己主義に絶望してはいませんでした。私もまたそれに同感していました。
けれども、私の日常生活においては、彼との距離はだんだん遠くなってきました。私は子供を抱えていると、世間に対してはだんだん積極的な心持になってくるのでした。そしてこの私共が相反した道に進むのと同じに、母のTに対する不満もだんだんにひどくなってき、それが私にも及ぶようになってきたのです。私共一家の者の心持はみんなそれぞれに別になってきました。
Tの心持がますます隠遁的になり、母の気持が露骨になるにつれて、私は時々、ひとりの生活を夢想するようになりました。私はその時分から、自分の結婚を悔やむような心持になりかかっていたのでした。そしてこの心持はTがたよりないと思うほどつのってくるのでした。どうかすると、私は家の中に満ちている不快からいっぺんに解放されるためにはどうかしてひとりになろうというつきつめた心持から子供を背負って出て見た事もあったくらいです。
しかし、私をこうした心持に導くのもいつも子供でしたが、この心持を抑えるのも不思議にまた子供だったのです。それと、もう一つはTのあの深いメランコリアです。私は
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 野枝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング