は私との結婚後少ししてからだんだんに広がりはじめたのです。
 ちょうどその時分文壇思想界は個人主義思想の最も高調されている時分でした。彼のエゴイスティックな傾向は、極端な個人主義の理屈といっしょになってだんだんに深味にはいってきたのです。
 私もやはりその思想に育てられたのです。私の属していた青鞜社の人々の思想もそれでした。私共の主張は個人の自由を要求する事でした。しかもこの主張に関しての実際の大きな運動を起こすには各々の個人がもっと完成されなければならないというのでした。私共は実際にいくらかの対社会的な運動をしながらもなおかつ、それよりも各自の自己完成を一義としていたくらいでした。
 当時青鞜社同人の名前はかなりよく世間の人に知られていました。そして女という物珍らしさから、よく他の新聞や雑誌に名前を出すことがありました。機関誌の「青鞜」ではない、他の雑誌にちょいちょい名前が出るようになった頃から、私は何となく皮肉な成行きを気にするようになりました。 
 本当にまだ無力な幼稚な自分の名があまりに世間的に知られる事が恐いのと同時に、なぜ充分に認められてもいいTが認められないのかという事が、始終私を苦しめました。そして、そのTの名前に対するチョイチョイした軽侮が私にはだんだん悲しいような腹立たしいような気持になってきたのです。続いてまた、彼が少しも自ら何の努力もしない事がはがゆくなってきたのでした。
 しかし、Tの気持はもうこの時にいい加減こじれていたのです。彼はただ極端なエゴイスティックな自分の心持の中にだけ自分の生活を見出していたのです。どんな事実も、彼に対他的な激情を起こさす事はむずかしいのでした。それに私の気がついた時には、もう彼はそこから動こうとはしなかったのでした。
 私は、かなり長い間、彼のこの感情にならされたのでした。私は一種のあきらめで彼の生活にくっついていたのです。
 たまに、何かの事から、彼を非難する事はあっても、理屈を持ってこられると私はもう何にもいい得ないのでした。そうしてとにかくかなり長い間私は辛抱して、彼を見ていたのです。私ばかりではなく、彼の母も、兄妹も。そして母や兄妹は今も同じで彼を見ているにちがいありません。彼と別れた私はもう何にも、気にはかからなくてもいいのです。けれど、私は、私の子供の父親として、折々彼の生活に私の心持が引っかかるのをどうする事も出来ません。私もまた彼と直接には無関係でありながら、なおまた、ますます調子のちがった彼の生活を気にする事があるのです。
 私は彼の妙な引っこみ思案に対して遠慮は少しもしませんでした。私は彼の才能を信じていましたから。彼は実力を持っていると信じていましたから。文壇にその頃幅をきかせている若い人達にくらべてもけっして劣る処はないと信じていましたから。私は少しも遠慮をする必要はなかったのです。しかし、何といっても、彼が文壇的に少しも野心を持たないのなら別ですが、相応に乗り出したい気もし、自分を信じてもいながら、妙にひっこんでいるのに対して、私の心持は少しずつ批評的になってきたのでした。
 その間にも私の前にはいろんな困難が次から次へと押しよせてきました。
 私共の生活の第一番の困難は、貧乏という事でした。Tは私を救うために失職しました。家にはその時から収入が途絶えたのです。そして私はその貧乏の中にとび込んだのです。私の親達も貧乏でしたがそれでも私は自分で直接に貧乏のつらさというものを少しも知りませんでした。もっとも、その時以来ずいぶん貧乏をしてきましたが、貧乏だけならちっともつらい事ではないと今もまだ思っているくらいですが。しかしとにかく初めての貧乏にずいぶんつらい思いをしたのは本当です。私は彼の母や妹たちがどうかしてそんなにいやな目に会わないようにしたいと思いました。けれども、私自身が何か働けるのならですが何にも出来ないのです。ではといって、彼はもう外に出て他人の下で働くのは真っ平だというのですからそれもすすめる訳にはゆきません。
 貧乏がだんだんひどくなってきますと、珍らしいくらいにあきらめのいい年寄りもたまには愚痴も小言もいいます。そしてそれに身を切られるほどに辛いのは私だけなんです。彼はそれは呑気でした。明日たべるものがないといっても、「仕方がない」と手を束ねている事が出来るのです。こんな貧乏の中にいてはそういう人がいちばん割がいいのです。
 あとから考えれば、ずいぶんいろんな事もありますが、どんなに利己的な態度をされても、その頃まで私が彼の態度に対して批評的になれなかったのは事実でした。私はどんな場合にも彼から独立し得なかったのです。彼に指導され教えられてきて出来た頭はどうしても彼に隷属して離れなかったのです。
 いろいろな困難が一つ一つ自分の身
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