なった。もう毎日のことにずいぶん考えも考えたが疲れてしまった。もう何にも考えまいと思い思いやはりそれからそれへと考えは飛んで行った。
「郵便! 藤井登志という人いますか」
「ハイ」
 出て見ると三通の封書を渡された。一通はN先生、一通は光郎、あとのはねずみ色の封筒に入った郵便局からのだ、あけて見ると電報為替だ。N先生から送ってくだすったもの、先生からこうしてお金を送って頂こうとは思わなかった。と思うと登志子はもう涙をいっぱい目に溜めていた。一昨日も先生の電報を見た時に、先生はこんなにまで気をつけてくださるのかと登志子はやはり涙溜めて志保子に先生のことを話した。
 登志子はすぐ先生の手紙を読んだ。
[#ここから1字下げ]
「御地からの手紙を見て電報を打った。意味が通じたかどうかと思って今も案じている。金に困るのならどこからでも打電してください、少々の事は間に合わせますから。弱い心は敵である。しっかりしていらっしゃい。事情はなお恭しく聞かねばわからないがとにかく自分の真の満足を得んがために自信を貫徹することが即ち当人の生命である。生命を失ってはそれこそ人形である。信じて進むところにその人の世界が開ける。
 いかなる場合にもレールの上などに立つべからず決して自棄すべからず
 心強かれ 取り急いでこれだけ。
今家へあて出した私の手紙の最後の一通が、あなたの家出のあとに届いたであろうと思われる。たれか開封して検閲に及んだかもしれない。熱した情を吐露した文章であったから、もしそれを見た人があるとすればその人は幸福である。」
[#ここで字下げ終わり]
 先生はこんなにまで私の上に心を注いでくださるか、私は本当に一生懸命にこれから自分の道をどんなに苦しくともつらくとも自分の手で切開いて進んで行かなければならない。私は決して自棄なんかしない。勉強する、勉強する、そして私はずんずん進んでいく。こんなにぐずぐずしてはいられないと登志子はしっかり思い定めて光郎の手紙を最後にあけた。軽いあるうれしさにかすかに胸がおどる。

[#ここから1字下げ]
「オイ、どうした。俺は今やっと『S』を卒業したところだ。もうかれこれ十二時頃だと思う。明日から仕事が始まるのだから『早くねなさい』と相変らずお母さんがおっしゃってくださるのだが、こっちは相変らずの親不孝なのだから『え』とか何とかなま返事をしてまだグズグズ起きている。でこれから何かまた少しものをいって見ようと思う。
 明日あたりまた手紙が来ることだろうと思うが――俺がこないだ書いた手紙はかなり向う見ずなものだったなあ、まあ、しかし俺はあんなことが平気で書けることを自分では頼もしいと思っている。俺は口に出して実はいってみたいといつでも思っているのだがなかなか口はいうことをきかなくて。三日の手紙はかなり痛快な気持ちを抱いて読み終わった。大分孤独をふりまわしたな、人間は孤独なものよ――深く突込んで思案したら、何人でも救われることのできない孤独の淋しさにおそわれるだろう。しかし世の中にはいろいろなものがあってそれを暫くでもごまかしてくれる。宗教、芸術、酒、女(女からいえば男)などがそれだ。無論各自の程度によって求むる種類と分量というようなものは異っていくだろうが、とにかくそんなものなしには一日も生きていくことはできないのだ。
 血肉の親子兄弟――それがなんだ。夫婦朋友それがなんだ、たいていはみな恐ろしく離れた世界に住んでいるじゃないか、皆恐ろしい孤独に生きているじゃないか。しかしたまたまやや同じような色合の世界に住んでいる人達が会って、そうしてできるだけお互いの住んでいる世界を理解しようと務めてかなり親しい間柄を結んでいくことがある。それは実に僥倖といってもいいくらいだ。もっとも理解という意味にはいろいろある。二人が全然相互に理解するというようなことはまあまあないことだと思う。またできもしないだろう。ただ比較的の意にすぎない。
 俺は筆をとるとすぐこんな理屈っぽいことをしゃべってしまうがこれも性分だから仕方ない許してもらおう。俺は汝を買い被っているかもしれないがかなり信用している。汝はあるいは俺にとって恐ろしい敵であるかもしれない。だが俺は汝のごとき敵を持つことを少しも悔いない。俺は汝を憎むほどに愛したいと思っている。甘ったるい関係などは全然造りたくないと思っている。俺は汝と痛切な相愛の生活を送ってみたいと思っている。もちろんあらゆる習俗から切り離された――否習俗をふみにじった上に建てられた生活を送ってみたいと思っている。汝にそこまでの覚悟があるかどうか。そうしてお互いの『自己』を発揮するために思い切って努力してみたい。もし不幸にして俺が弱く汝の発展を妨げるようならお前はいつでも俺を棄ててどこへでも行くがいい。
[#地
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 野枝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング