とした。しかし考えることの腹立たしさに順序をおうて話のすじ道をたてることができなかった。そうしてなるべく考えないことにつとめた。その頃は、もちろん光郎にはそんなことをむきつけに話せるほどの間ではなかった。煩悶に煩悶を重ね焦り焦りして頭が動かなくなるほど毎日そればかり考えていても、登志子の考えはきまらなかった。日数は遠慮なくたって、とうとうN先生にも打ち明ける機会は失くなってしまった。最後に大混雑の中にようやく仕方なしに漠然と極めたことは、嫌な嫌なあの知らない男や八カましい周囲から逃れることが第一であった。見たばかりでも自分よりずっと低級らしい、そして何の能もないらしい間のぬけた顔をしたあの男と、どうして一時間でもいられるものではないと登志子はそればっかり思っていた。考えてみると登志子は姦通呼ばわりする男が憎らしくなってくるよりも滑稽になってきた。あの男にそういうことをいえるだけの確信が本当にあるのかとおかしくなってきた。「私妻」等と書かれたことの腹立たしさよりも、れいれいしく書いた男が滑稽に思えてきた。むしろ登志子は光郎に対して何か罪でも犯したような気がした。別れてからまだ半月とはたたない。もうしかし一年も間をおいたように思われるのだ。何でもいい早く上京したい。行ってみんな話してやる、本当のことをみんな話そう、N先生にしろ、光郎にしろ、自分の話はきっと解ってくれるに違いない。東京に行きさえすれば――そうだ、行きさえすればきっと…………
 登志子は目を据えてついたときのことをいろいろに想像してみた。ただ彼女の気持ちをときどき不快にするのは、光郎との恋のためばかりに家出した、と思われることだった。彼女は何となしにそれについて自分にまで弁解がましいことを考えていた。けれどもそれも一つの動力になっていると思えば、そんなことはもう考えていられなくなって今日にも行くようにしたいのだった。
 登志子はからっぽになったところに、はやく行きたいという矢も楯もたまらない気持がたった一ついっぱいに拡がった、いつにないたのしい気持ちで為替の面をじっと見つめながら、鏡を出して頭髪にさしたピンを一本一本ぬいていった。



底本:「伊藤野枝全集 上」學藝書林
   1970(昭和45)年3月31日第1刷発行
   1986(昭和61)年11月25日第4刷発行
※「結婚した」は底本では、改行1字下げとなっています。
入力:林 幸雄
校正:UMEKI Yoshimi
2002年11月9日作成
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