かし俺は無論そんなことは眼中にはないのだ。俺はただ汝が帰国する前になぜもっと俺に向って全てを打ち明けてくれなかったのだとそれを残念に思っている。少なくとも先生へなりと話しておけば、俺等はまさか『そうか』とその話を聞きはなしにしておくような男じゃあない。それは女としてそういうことは打ち明けにくかろう。しかしそれは一時だ、汝が全てを打ち明けないのだからどうすることもできないじゃあないか。しかし問題はとにかく汝がはやく上京することだ。どうかして一時金を都合して上京した上でなくってはどうすることもできない。俺は少なくとも男だ。汝一人くらいをどうにもすることができないような意気地なしではないと思っている。そうしてもし汝の父なり警官なりもしくは夫と称する人が上京したら、逃げかくれしないで堂々と話をつけるのだ。俺は物を秘かにすることを好まない。九日付の手紙をS先生に見せたのも一つは俺は隠して事をするのが嫌だからだ。姦通などという馬鹿馬鹿しい誤解をまねくのが嫌だからだ。イザとなれば俺は自分の立場を放棄してもさしつかえない。俺はあくまで汝の味方になって習俗打破の仕事を続けようと思う、汝もその覚悟でもう少し強くならなければ駄目だ。とにかく上京したらさっそく俺の所にやってこい。かまわないから、俺の家では幸にも習俗に囚われている人間は一人もいないのだから。母でも妹でもずいぶんわけはわかっている。そうして俺を深く信じているのだ。もちろん汝に対して深い同情?Lしている。遠慮をせずにやってくるがいい。だが汝はきた上でとても俺の内に辛抱ができないと思ったら、いつでもわきに行くがいい。俺は全ての人の自由を重んずる。御勝手次第たるべしだ。それにN君も心配しているのだから、それにS先生だって汝の理解出来ないような人ではなし、なんでも永田という人のところに「あの女はとても駄目だから、あきらめたほうがいい」というような手紙を送ったそうだ。とにかく東京へくれば道はいくらでもつく、そんなに心細がるなよ、だが汝は相変らず詩人だな、まあそこが汝の尊いところなのだ。今に落ち付いたら[#「落ち付いたら」は底本では「落付ちいたら」]詳しく出奔の情調でも味わうがいい。俺は近頃汝のために思いがけない刺戟を受けて毎日元気よく暮らしている。ずいぶん単調平几な生活だからなあ。
上京したらあらいざらい真実のことを告白しろ、その上で俺は汝に対する態度をいっそう明白にするつもりだ。俺は遊んでいる心持ちをもちたくないと思っている。
なにしろ離れていたのじゃ通じないからな、出て来るにもよほど用心しないと途中でつかまるぞ、もっと書きたいのだけれど余裕がないからやめる。
[#地から3字上げ](十五日夜)
[#ここで字下げ終わり]
いろいろなすべての光景が一度になって過ぎていく。今までまるでわからなかった国の方のさわぎもいくらか分るような気もするし、学校での様子などもありありと浮かんでくる。
ここから上京するまでの間に見つかるなどいうことも今まで少しも考えなかったのに、急に不安に胸を波立たせたりしながら、読み終わって登志子はしばらく呆然としていた。
「結婚した」といわれるのが登志子には涙の出るほど口惜しかった。しかしやはりしたといわれても仕方がなかった。登志子自身の気持ちではどうしても結婚したということは考えられないのだけれど――彼女はその時から今日を予想してそれが一番自分に非道な強い方をした者に対する復讐だと思った。しかし今自分の気持のどこをさがしてもしかえし[#「しかえし」に傍点]をしてやっているのだというような快さはさらになくて、かえって自分が苦しんでいるように思われる。登志子は手紙を読んでしまうと、いろいろな感情が一時にかきまわされてときの声をあげて体中を荒れ狂うように思われた。だんだんそれが静まるにつれて考えは多く光郎と自分の上にうつっていった。そうして目はいつか姦通、という忌わしい字の上に落ちていった。
「本当にそうなのかしら」
考えると登志子は身ぶるいした。あの当時登志子の胸は悲憤に炎えていた。何を思うひまも行なう間もなかった。「惨酷なその強制に報いるためには?」という問題ばかりが彼女の頭の中にたった一つはっきりした、一番はっきりしたそしてその場合におけるたった一つの問題として与えられたのだ。もちろんこうした男の愛をそんなにもはやく受けようとは思いもよらなかったのだ。強制された不満な結婚の約を破ることは登志子にとってはいともやさしいことに思えた。そしてなお彼女は修学中であった。共棲するまでには半年の猶予があったので、その間にどうにもなると思っていた。
帰校後の登志子はほとんど自棄に等しい生活をしはじめた。彼女と一緒にいた従姉はただ驚いていた。登志子は幾度かその苦悶をN先生に許えよう
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