少数と多数
エンマ・ゴルドマン
伊藤野枝訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)量《コンティティ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|屡々《しばしば》
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私は現代の傾向を要約して「量《コンティティ》」であると云ひたい。群衆と群集精神とは随所にはびこつて「質《クオリティ》」を破壊しつつある。今や私どもの全生活――生産、政治、教育――は全く数と量との上に置かれてゐる。且て自己の作品の完全と質とにプライドを持つてゐた労働者は自己に対しては無価値に一般人類にとつては有害な多額の物品を徒《いたず》らに産出する無能の自働機械に変つてしまつた。かくして「量」は人生の慰藉と平和とを助くるに反し、唯だ人間の重荷を増加した。
政治に於ては量以外に何物も省みられない。量の増加につれて、主義、理想、正義等は悉《ことごと》く多数者の為に没却せられてしまふ。政治上の種々なる党派は常に虚偽と欺瞞と狡猾と陰謀を逞《たくまし》うして相互の主権を争つてゐる。成功さへすれば勝利者として必ず多数者の歓迎を受ける――彼等は皆さう信じてゐる。成功――それのみが唯一の神。品性に対してどれ程恐しい価を払つてゐるかといふ事はまるで問題にもしてゐない。私どもは今更進んでこの悲しい事実を証拠立てる必要はない。
政府の腐敗と堕落とがあばかれて今の様にはつきりと目前に示されたことはこれまでにないことである。数年の間、人民の権利自由の保護者と仰がれ、社会制度の本綱として全然誹難の外に立つてきた政府がか程迄にユダの如き性質を現はさうとは私どもの全く思ひ設けなかつたところである。
かの党派の罪悪が次第に厚顔になつてきて盲人さへそれを見分けることが出来るやうになつた時、彼等は自党に対する阿諛《あゆ》追従者を頻《しき》りに召集するの必要に迫られた。而《しか》してその権勢は愈々《いよいよ》確立せられた。幾度となく欺かれ、裏切られ、蹂躙《じゅうりん》せられた犠牲者等はひたすら勝利者のためにのみ計つた。困惑せる少数者はこの時、亜米利加《アメリカ》の自由はどうしてこの様に多数者のために裏切られたのであるか?と訊ねた。かくの如きことを敢へて行つた多数者の判断と推理力とは何処にあつたのであらう? 多数者には推理などいふことは出来ないのだ。判断などいうものは皆無なのだ――ただそれのみ。徹頭徹尾独創力と道義的勇気とを欠いてゐる多数者は常に自己の運命を他の手に托した。自己の責任を負ふて立つことが出来ない彼等は指導者の導くがままに奈落の淵にまでも追従せんとするのである。『われ等の中にあつて最も恐るべき真理と正義との敵は団結せる多数者である。呪はれたる群衆である』と叫んだストツクマンは正しかつた。凡《およ》そ群衆の如く革新を憎むものはあるまい。彼等には新しき第一歩を踏み出す力もなければアンビシヨンもないのである。彼等は常に新しき真理の革新者、先駆者を弾劾し迫害し来つたのである。
現代は個人主義の時代であり、少数者の時代であるとは全ての政治家、社会主義者を問はず一様に提唱し又|屡々《しばしば》繰返される鯨波《スローガン》である。只だ浅薄皮層に止まる人々のみかくの如き見解によつて惑はされるかも知れない。如何にも少数者は世界の富を蓄積した。彼等は実に現代の主人であり、絶対の帝王である。然しながら彼等の成効は決して個人主義の影響によるものではない。否、全く群衆の怯懦と怠慢と絶対服従とに起因してゐるのである。群衆は只管《ひたすら》支配せられ、圧制せられ、指導せられんことをのみ求めてゐる。凡そ現代の如く個人主義がその完全な発想をなすの機会を失ひ、健全なる状態に於て自から肯定する事を得ざる時代は人類の歴史以来初めてのことなのではあるまいか。
正直な目的のために没頭せる個人的特色ある教育家、独創的思想を抱く文学者及び芸術家、独立|不覊《ふき》の科学者或は探究家、妥協せざる社会改良家――これ等の人々は老衰のため学識と創造力とを全く失つてしまつた人々によつて日々壁の一隅に押付けられてゐる。
フエラア型の教育者(Francisco Ferrer――革命的教育家、一九〇九年九月一日、教権に反抗せりとの故をもつて西班牙《スペイン》政府の捕ふるところとなり、同十月十三日獄中にて銃殺せらる。――訳者)は現社会にあつては何処にも入れられないのである。衆愚と自働機械の時代に於てはかの俗流に媚ぶるエリオツト或はパツトラア教授の如き人々でなければ成功と永続とは覚束ないのである。文界及び劇界に於てもハンフレイ・ワアズ或はクライド・フイチエスの如きが群衆の偶像であるにひきかへ、エマアソン、トロウ、ホイツトマン、イブセン、イエツ、ステフエン・フイリツプスの如き天才の美を認識する者は極めて少数に過ぎない。彼等は群集地平線の遙かかなたに輝く孤独なる星辰である。
出版業者、演劇主任、所謂《いわゆる》批評家等は創作に離るべからざる「質」を無視して、その売れ行きと俗受とを先《ま》づ問題とする。悲しいかな、俗衆の口は塵芥箱《ごみばこ》の如く、心力の咀嚼を要せざるもののみを受入れんとする。その結果として平凡陳腐なる作物のみが代表的作品として歓迎せられるのである。
芸術界に於ても同一の悲しき事実に面することは改めて云ふまでもない。所謂芸術製造品の俗悪と醜さとが知りたければ公園や大通りを観察して歩けば直にわかることである。俗悪なる多数趣味以外になにものかかくの如き芸術の蹂躙を黙許することが出来よう。都市の随所に簇立せる銅像の類は悉く低級虚偽の作品のみであつて、真の芸術に比する時は恰《あたか》かもミケルアンヂエロの作物に対する土人の偶像であるかの如き観がある。然しそれ等が成功に価する唯一の芸術品である。社会の既成観念に囚はるることなく、自在に独創を発揮し、ひたすらライフに真実ならんと努力する芸術的天才は常に惨憺零落の生涯を送る。勿論彼の作物と雖《いえど》も何日か弥次馬の玩弄品となる時があるかも知れない。然しそれは少なくとも彼の心血が悉く注ぎ尽された後である。
今日の芸術家はかの古《いにしえ》のブロメシヤスの如く絶へず経済的必迫の巖上に縛せらるるが故に自由なる創造に従事することが出来ないのであると一般に云はれてゐる。然しながらそれは孰《いず》れの時代を問はず常に真の芸術家に伴つてゐたことなのである。かのミケルアンヂエロすら保護者《パトロン》に依立してゐた。唯だ当時の芸術鑑識家は現代の盲目なる群衆とは遙かにその趣きを異にしてゐたのである。彼等は真に芸術の殿堂に参することを光栄と感じてゐた人々である。
現代の芸術保護者は弗《ダラア》といふ唯一つの標準、価値を知つてゐる。彼は傑作の真質に関して全く没交渉である。彼は芸術品のために支払はるる金の価にのみ重きを置く者である。かくしてミルポウの『商売は商売だ』中の財政家はある不明な画を指して「如何《どう》ですこの傑作は、なんしろ五万フランですからな――」と云つた。現代成金の口吻そのままである。芸術品のために払はるる無意味の金嵩《きんがさ》は彼等の貧弱なる趣味の埋合せをしなければならない。
思想の独立といふことが又社会に於て最も許すべからざる罪になつてゐる。之が民主主義を標榜してゐる国に最も著しく現れてゐるといふことは甚だ意味深いことでなければならない。恐るべき多数者の力。
ウエンデル・フイリツプスは五十年以前に云つた。『絶対民主平等のわが国では輿論は唯だに万能《オムニポーテント》である許りでなく、遍在《オムニプレゼント》でもある。輿論の暴戻《ぼうれい》から逃るべき道もなく隠るべき場所もない。仮令《たとえ》諸君がかの古の希臘《ギリシア》の提燈《ランタン》を携へて探しまはつても、世間の評判によつて自己の社会上の位置や仕事の上に何等の利害得失を蒙らない人を見付出すことは不可能であらう。吾人は自己の確信を臆することなく吐露する個人の集団ではなく、他の国民に比して極めて臆病なる群衆である。吾人は相互に恐れ合つてゐるのである。』これによつて見ると現代はかのウエンデル・フイリツプスを障げた当時の状態から幾許も進んではゐないのである。
今日もかの当時に於ける輿論は遍在せる暴君である。現代の多数者は臆病者の群集を代表し、自己の心霊の貧弱を遺憾なく映ずる人間を喜んで歓迎してゐる。それはかのルウズベルトの如き人間が前例になき程の位置を得てゐるのでも解かる。彼は群衆心理の最悪なる要素を体現してゐる。彼は多数者が理想と純潔とを無視してゐるといふことをよく知りぬいてゐる政治家である。群衆の欲求するものは見世物である。それが犬芝居であらうが、懸賞決闘であらうが、黒奴の私刑《リンチ》であらうが、結婚披露であらうがかまはない。精神顛倒が恐しければ恐しい程、群衆の歓喜と称讚とが激烈になるのである。かくして貧弱なる理想と俗悪なる精神とを有するルウズヴエルトの如き人間が時代の寵児として名誉を博するに至るのである。
然るに一方にあつて、かくの如き政治上の小人の上に高く位する教養あり真に才能ある人々が懦夫《だふ》として嘲弄せられてゐる。現代を個人主義全盛の時代であると主張するが如きは極めて滑稽である。現代は歴史上に繰返される全ての現象中の最も有害なるものである。宗教と云はず、政治経済上の自由と云はず、人類の進歩に対する全ての努力は悉く少数者より発生するのである。而して今日に於てもなほ少数者はたへず誤解せられ、迫害せられ投獄せられ、或は殺戮せられてゐるではないか。
ナザレの叛逆者によつて説かれたる同胞主義はそれが少数者の光明である間は生命、真理、正義の芽を保存してゐた。然しながら多数者がそれを捉へた瞬間、その偉大なる主義は一種の符諜となり、到る処に苦痛と災厄とを伝播する血と火の先駆者となつた。カルヴイン、ルウテル等の巨人が羅馬《ローマ》の万能に対する攻撃は夜の暗黒に輝く旭日の如くであつた。然しながらルウテルとカルヴインが政治家と変じ貴族並びに群集精神に呼応し初むると同時に彼等は改革の本旨を危地に陥れた。彼等は多数者の味方を得て遂に成功した。けれどもその多数者はかの旧教の怪物《モンスタア》と同じく理想と理性に対する残酷な迫害者であつた。群集の輿論の前に低頭せざる少数異端者は禍なるかな。不断の熱誠と忍耐と犠牲によつて人心は遂に宗教的妄想より覚醒し、初めて自由なることを得るのである。少数者は新なる勝利の前途に猛進する。然るに年と共に虚偽に変りゆく真理を背負ふ多数者は疲れたる歩みを常にひきづツてゐるのである。
王者及び圧制者の権力に反抗して一歩一歩自己勝算の道を踏みしめつゝ悪戦するジヨン・ボール、ワツト・テイラア、テルの如き巨人等が沢山出て来なければ人類は永久に絶対的奴隷状態を脱することは至難であらう。個人的先駆者の力によらなければかの仏蘭西《フランス》革命の巨濤も遂に社会をその根底から震憾させることは出来なかつたであらう。大事は常に小事によつて先立たれてゐる。かくてカミイル・デスモリンの熱烈なる雄弁はバスチル牢獄と苛酷なる政治とあらゆる伝習とを顛覆するエリコの前の喇叭《ラッパ》であつた。
如何なる時代に於ても少数者は常に偉大なる思想と自由の旗幟《きし》を真先に翻がへすのである。鉛の如く縛されたる群衆は何事をもなし得ない。この事実は露西亜《ロシア》に於て最も力強く証明せられた。数千の生命は血政のために犠牲となつた。しかもかの玉座の怪物は依然として滅ぼされない。最深最善の情緒が鉄の軛《くびき》の下に呻吟しつつある時、如何して文学、教養、思想の発達進歩を見ることが出来やう? かの惰眠を貪る不活溌愚昧の露西亜農民は言語に絶する悲惨、闘争、犠牲の一世紀を経たる後もなほ『白き手の人々』を絞殺せる縄は幸運の御咒《おまじない》になると信じてゐるのである。
亜米利加に於ける自由獲得の歴史に於ても多数者は常にその障碍《しょうがい》である。今日に於てもなほジヤフアソン、パトリツク・ヘンリイ、トーマス・ペイ
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