結婚と恋愛
エンマ・ゴルドマン
伊藤野枝訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蓋《おお》ふて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)永い間|所謂《いわゆる》

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(例)※[#「くさかんむり/刺」、第3水準1−90−91]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)よく/\
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 結婚と恋愛に関する一般の観念は其が同意義であり、同じ動機から湧き出し、同じ人間の必要を蓋《おお》ふてゐると云ふのである、大抵の通俗観念と同様にこれも亦事実に基かないで、迷信に基いてゐるのである。
 結婚と恋愛は共通な何物をも持つてはゐない。両者はまるで両極のやうに離れてゐる。実際、相互に敵視してゐるのである。勿論ある結婚は恋愛の結果であつた。然し恋愛が結婚に於てのみそれ自身を肯定することが出来るからだと云ふのではない。寧《むし》ろ大抵の人が習俗をまつたく脱することが出来ないからだ。今日では多数の男女にとつて結婚は喜劇以外の何物でもない。ただ輿論の為めにそれに服従してゐる許《ばか》りである。兎《と》に角《かく》或種の結婚は恋愛を土台としてゐることは事実であるし、またその恋愛が結婚してから継続してゐるのもあるのは等しく事実ではあるが、私はそれが結婚とはまつたく関係が無いものであり、又それが為めだと云ふやうなことを主張したくないのである。
 それに又恋愛が結婚の結果だと云ふのが既に全然誤つてゐる。極く稀れな場合に夫婦が結婚後初めて恋に落ち入ると云ふ奇蹟的現象を聞くこともあるが、よく/\験《しら》べて見ると、やむを得ない場合に於ける単なる調停妥協だと云ふことが発見せられるだらう。相互間に漸次生じて来る恋愛は自発、熱烈性、恋愛美など云ふものから遙かに遠い、それ等のものが欠けてゐれば結婚は男女両者にとつてみじめなものとならなければならない。
 結婚は元来経済的の取り極めであり、保険の契約の如きものである。普通の生命保険の契約と違ふところは、ただそれが一層結合的で精確だと云ふにとどまつてゐる。その払ひ戻しは掛金に比べてお話しにならない程僅少である。保険に這入《はい》る人は一時に沢山払ひ込んでも僅かづつ払ひ込んでも、或は都合上支払ひを途中で中止してもそれは自由である。然し女が一度結婚保険に這入れば自分の名前、私生活、自尊、並に生命それ自身までも『死が分かつまで』捧げて一生夫の為めに支払はなければならない。更に結婚保険は女に生涯の従属を宣告し、個人としても公人としても全然不用な寄生的なものとする。男も亦《また》結婚税を支払ふ、けれど女よりその範囲が広いから、女の場合のやうに結婚は男を制限しない。男はただ自分の束縛を経済的の意味に於て一層感ずるやうになる。
 かくしてダンテの地獄の扉銘が同一の力を以つて結婚に応用される『此処に入り込む汝等は全ての希望を後に見棄つ。』
 結婚が失敗だと云ふことは余ほどの馬鹿でない以上は拒まないであらう。離婚の統計を一目見たら、誰れでも結婚がどれ程苦い失敗であるかを明らかに見ることが出来るだらう。また離婚法が緩慢になり彼女が段々ふしだらになつて来たと云ふ型にはまつたフイリスチン流の議論も左の事実を説明することは出来ないだらう。第一、結婚は十二に一つ離婚に終つてゐる。第二、一八七〇年以来、離婚の数が十万の人口に対して二八パーセントから七三パーセントに増加した。第三、一八六七年以来、離婚条件として姦通の数が二七〇・八パーセント増した。第四、置き去りが三六九・八パーセント増加した。
 これ等の驚くべき統計に加ふるに更にこの問題を説明する文学戯曲の取材が多量にある。ロバアトヘリツクの『Together《トゲザア》』、ピネロの『Mid《ミッド》 Channel《チャンネル》』、ユジエンオルタアの『Paid《ペイド》 in《イン》 Full《フル》』それからまだ外に沢山の著者が結婚の乾燥、単調、陋劣、不満足等を挙げ、調和と理解の要素を欠いてゐるものだと論じてゐる。
 考へ深い社会学研究者はこの現象に対する浅薄な通俗的弁解では満足しないだらう。彼はもつと深く両性の内部生命に突き入つて何故結婚がそんなに悲惨なものであるかを知らうと欲するであらう。
 悉《あら》ゆる結婚の裏面には両性の一生の雰囲気がまつわつてゐる。その雰囲気は相互に異なつてゐるので、男と女とは永久に他人でなければならないとエドワード・カアペンターは云つてゐる、迷信や風俗や習慣の超へ難い障壁によつて分離されてゐては結婚は相互に対する智識や尊敬を発達させる力を持つことは出来ない。それが無くてはどんな結合も失敗に終るのである。
 悉ゆる社会的虚偽の憎悪者ヘンリツク・イブセンは恐らくこの大真理を実現しようとした最初の人であつた。ノラが彼女の夫を棄てる――それは愚劣な批評家が云ふやうに彼女が自分の責任に倦怠を来たし、婦人の権力の必要を感じたからではなく、彼女が八年間見ず知らずの他人と生活して子供を生んだと云ふことを自覚したからだ。二人のあかの他人が一生親密の関係を造ると云ふより以上に陋劣な堕落したことがあり得やうか。女は夫の収入以外に夫に就いては何事をも知る必要がないのだ。また男が女に対する智識と云つては彼女が御気に召す顔付きをしてゐると云ふほか何もないのだ。私等は未だ女には霊魂がなく、彼女は単に男の附属品で便宜上自分自身の影法師を恐がつてゐる程強い男の肋骨から造られたものだと云ふ神学的の神話以上に進んではゐないのだ。
 恐らく女が劣等だと云ふことに就ては女が作られた材料の哀れな性質が責任を持つことであらう。兎に角女には霊魂がない――女に就て知るべき何物があるのだ? のみならず、女に霊魂の分子が少なければ少ない程妻としての価値が大きくなり、更に容易に夫に同化し得ると云ふのだ。永い間|所謂《いわゆる》結婚制度なるものを保存したのはこの男尊説に対する奴隷的黙従である、今や女は真に主人の恩恵から離れた存在物として自覚し初めた。そして神聖な結婚制度は次第に顛覆されつつある。そしてどんな感傷的悲哀もそれをとどめることは出来ない。
 一般の娘等は大抵幼少から結婚が彼女の最終目的であると語られる。だから彼女の訓練と教育とはその目的に向つて導かれなければならない。口のきけない動物が屠殺の為めに肥らせられるやうに、彼女はその為めに用意される。けれど、可笑《おか》しいことには、彼女が妻や母としての職務に就て知ることを許されてゐるのは、普通の工人がその職に関してよりはずつと僅少である。立派な少女が結婚関係に就て知るのは無作法で野卑だと云ふのだ。オゝ、その尊厳の矛盾の為め、結婚誓約を必然に不潔なものから最も純潔な最も神聖な取り極めに転じて、何人も敢へてそれを尋ね、或は批判することを許さない。けれどそれが確かに結婚主張者の一般の態度である。未来の妻と母とは性と云ふ争先的範囲に於ける彼女の唯一の財産に関して全く無智にされてゐる。かくして彼女は或男と一生の関係に這入り込んで、発見するのは自分が性と云ふ最も自然な健康な本能によつて限りなくおびやかされ、反抗せられ、蹂躙《じゅうりん》せられてゐることだ。結婚によつて生ずる不幸、悲惨、失望並に生理的苦痛の大部分はかの立派な徳として讚美せられてゐる性の事柄に関する罪悪的無智に帰すると云つても差支はなからう。この悲しむべき事実の為め多くの家庭が破滅に終つたと私が云ふのは決して誇張ではないのだ。
 けれど、若《も》し女が充分自由に成長して国家若しくは教会の裁可なしに性の秘密を学ぶなら、彼女はまつたく『善良』な男の妻となるに不適当だとして罪を宣告されるだらう、男の善良と云ふのは空ツぽな頭と金が沢山にあると云ふに過ぎない。生命と情熱とに充ち、健康で成熟した婦人が自然の要求を否定し自分の最も痛切な欲求を抑制し、その健康を覆がへし、精神を破り、夢想を妨げ、性的経験の深さと光栄とを棄てて、『善良』な男が妻として彼女を連れに来るまで待つと云ふこと以上に一層残酷なことがあるだらうか? 結婚とは確かにこれなのだ。このやうな組み立てが失敗に終らないで何に終るだらう? これがかなり重要な結婚の一要素で結婚を恋愛から区別せしむるものなのである。
 今は実際的時代である。ロメオとジユリエツトがかれ等の両親の憤怒を冒して恋し合ひ、グレチエンが恋愛の為め彼女の隣人の噂さに自らをさらした時代は過ぎた。たとへ稀れな場合に若い人等が贅沢なローマンスに耽けるとも、かれ等は年長者の監視を受け、かれ等が『性根づく』まで訓練せられ、搗《つ》き砕《くだ》かれる。
 少女に注ぎ込まれる教訓は男がどのやうに彼女の愛を呼び起したかではなく、寧ろ『いくら』かと云ふことにある。男が生活することが出来るか? 彼は妻を扶養することが出来るか? これが実際的|亜米利加《アメリカ》生活の重要な唯一の神だ。そして結婚を正当と認める唯一の条件なのだ。これが次第にあらゆる少女の思想に浸透する。彼女の夢は月光と接吻でもなく、笑と涙とでもない。彼女は買物まわりと帳場とを夢見る。この霊性の貧弱と野卑とが結婚制度に固有な要素である。国家と教会とは他に何等の理想をも承認しない。何故なら国家と教会とは単に男女を支配する必要上の手段に過ぎないからである。
 勿論恋愛を金銭以上に考へてゐる人達がないことはない。特に此事は経済的必要が余儀なく独立を促した階級の人々にとつて真である。かの巨大な原動力によつて動かされた驚くべき婦人の地位の変化は婦人が産業の角逐場に入りこんで以来如何に僅少の時日を経過したかを省みる時は誠に驚嘆せざるを得ないのである。六百万の婦人賃金労働者、男子と同等な権力を有し、男子と等しく利用せられ、掠奪せられ、ストライキを企て、否、餓死にすら与《あず》かる六百万の婦人、閣下、これ以上の事がありませうか? さうです、人生のあらゆる道程にあつて最高な頭脳の労働から鉱山或は鉄道の労働、否探偵及び巡査の職にすら従事する六百万の婦人賃金労働者。たしかに解放は完成されたのです。
 併《しか》しこれにも関はらず、婦人賃金労働者の大軍中の極めて少数は男子と同じく労働を不断の流出と見做してゐる。男子は如何に老衰しても、自主独立を教へられた人間だ。オゝ、私は何人もわが経済的踏み車中に在つて真に独立することの出来ないのを知つてゐる。而《しか》も尤《もっと》も哀れな男の標本も寄生者たることを悪《にく》む、否、少なくとも寄生者であると知られることを憎んでゐる。
 婦人労働者は自己の位置を一時的と考へ、最初の入札者によつて投げ出さるることを予期してゐる。それが男子より婦人を組織するの如何に困難であるかの理由である。『どうして私は組み合ひなどに加盟しませう? 私は結婚して家庭を造らうとしてゐるのです。』彼女は幼少からそれを以て最終の天職と見做すことを教へられなかつただらうか。然し彼女は家庭がたとへ工場の如く大きな牢獄でないとしても一層堅固な戸と閂《かんぬき》を有してゐることを学ぶのである。家庭はどんなものでも脱れることが出来ない忠実な番人を持つてゐる。最も悲惨なことは家庭がもはや賃金奴隷から彼女を自由にすることなく、単に彼女の仕事を増加することである。
『労働、賃金、並に人口集積』に関する委員に附托せられた最近の統計によると、ニユーヨルク市の労働者中既婚者は僅《わず》かにその一割に過ぎない。而もかれ等は世界中に於て最も低廉な賃金によつてその労働を継続しなければならないのだ。この恐るべき現象に加ふるに家庭の労役が伴ふのである。かくの如くして家庭の保護と光栄の何ものが残されるのであらう? 実際、結婚した中流の少女でさへ自からの家庭に就て話すことは出来ないのだ、彼女の周囲を作り出すのは男だからだ。夫が獣か愛人かと云ふことは重要ではない。私が証拠立てようと望むのは結婚が婦人に家
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