つ払ひ込んでも、或は都合上支払ひを途中で中止してもそれは自由である。然し女が一度結婚保険に這入れば自分の名前、私生活、自尊、並に生命それ自身までも『死が分かつまで』捧げて一生夫の為めに支払はなければならない。更に結婚保険は女に生涯の従属を宣告し、個人としても公人としても全然不用な寄生的なものとする。男も亦《また》結婚税を支払ふ、けれど女よりその範囲が広いから、女の場合のやうに結婚は男を制限しない。男はただ自分の束縛を経済的の意味に於て一層感ずるやうになる。
 かくしてダンテの地獄の扉銘が同一の力を以つて結婚に応用される『此処に入り込む汝等は全ての希望を後に見棄つ。』
 結婚が失敗だと云ふことは余ほどの馬鹿でない以上は拒まないであらう。離婚の統計を一目見たら、誰れでも結婚がどれ程苦い失敗であるかを明らかに見ることが出来るだらう。また離婚法が緩慢になり彼女が段々ふしだらになつて来たと云ふ型にはまつたフイリスチン流の議論も左の事実を説明することは出来ないだらう。第一、結婚は十二に一つ離婚に終つてゐる。第二、一八七〇年以来、離婚の数が十万の人口に対して二八パーセントから七三パーセントに増加した。第三、一八六七年以来、離婚条件として姦通の数が二七〇・八パーセント増した。第四、置き去りが三六九・八パーセント増加した。
 これ等の驚くべき統計に加ふるに更にこの問題を説明する文学戯曲の取材が多量にある。ロバアトヘリツクの『Together《トゲザア》』、ピネロの『Mid《ミッド》 Channel《チャンネル》』、ユジエンオルタアの『Paid《ペイド》 in《イン》 Full《フル》』それからまだ外に沢山の著者が結婚の乾燥、単調、陋劣、不満足等を挙げ、調和と理解の要素を欠いてゐるものだと論じてゐる。
 考へ深い社会学研究者はこの現象に対する浅薄な通俗的弁解では満足しないだらう。彼はもつと深く両性の内部生命に突き入つて何故結婚がそんなに悲惨なものであるかを知らうと欲するであらう。
 悉《あら》ゆる結婚の裏面には両性の一生の雰囲気がまつわつてゐる。その雰囲気は相互に異なつてゐるので、男と女とは永久に他人でなければならないとエドワード・カアペンターは云つてゐる、迷信や風俗や習慣の超へ難い障壁によつて分離されてゐては結婚は相互に対する智識や尊敬を発達させる力を持つことは出来ない。それが無くて
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