ってしまいやがって、それから何んにもいわなかった。」
 彼はいつも夢中になって話すときには、誰に向ってもそうであるように、ぞんざいな言葉でそう話しました。
「感心ね。よく、でも、そんな理屈が考え出せてねえ。」
「そりゃもう口惜しいから一生懸命さ。どうです、間違っちゃいないでしょう。」

        七

 彼は未決にいるうちにGさんが差し入れてくれた「平民科学」の感銘が深かったことをしきりに話していました。そういう学問の不思議と面白さを初めて知ったのです。同時に学者のえらさをしきりにほめ上げました。
 ちょうどその頃もう一人私の家には牢屋の中でうんと本を読んでえらくなってきていた若いNという同志がいました。Nは巣鴨の少年監でうんとやはり科学の本を読んだのです。そして少年の驚くべき記憶力でもって、大部分読んだことを記憶に残していました。YはこのNの博識を感心して聞いていました。
 Yが家にいるようになったら――と思ってかなり心配した私も、すっかり落ちついたYを見て少なからず驚きました。彼は朝晩代りばんこにみんなでやることになっている炊事を、毎朝自分で引き受けました。そして牢屋で習慣づけられたとおりに、雑巾などを握って台所なども、案外きれいに片づけました。そしてひまがあると、何か読書をしていました。そして時々、いい本があったら読んでくれ、と私に頼むのでした。
 けれども、Yに本を読んでやることは、誰にも辛抱ができませんでした。なぜなら、彼はその聞いてゆくうちに疑問が生じてそれを質すまではいいのですが、途中で何か感じたことがあると、もう書物のことは忘れたように、三十分でも一時間でもひとりで、とんでもない感想をしゃべりまくります。もしそれが年若いNででもあろうものなら、いつの間にか大変な大激論となってしまいます。そうでなくとも、到底、そのおしゃべりの終わりを待って、後を読みつづけてやるという辛抱はできないのです。
 しかし、私の感心は僅かの間に消えてしまいました。Yは健康がよくなると同時に、狭い家の中いっぱいに広がりはじめました。ことに最初から私共に対して持っているひがみを現わしはじめました。その頃すっかり健康を悪くして寝たり起きたりの状態でいた私が台所に出られない時には、彼は露骨に私を嫌がらすような、そして誰をも喜ばさないご馳走を傲然と押しつけるのでした。それから彼はまた、食べ残したむし返しの御飯や、食べ残しものを、近所の安宿の泊客を連れてきてはほどこし[#「ほどこし」に傍点]をしてやるのです。彼は狭い台所に胡坐をかいて、汚い乞食のような人達に、私共は恥ずかしくて犬にしか出してやれないようなものを食べさせながら、彼は貧乏人の味方の主義を「説いて」聞かすのです。他の同志や私などが、あまりひどい御馳走を施してその上ありがた迷惑なお説教を聞かしたりすることを批難しましても、彼は決してへこみはしませんでした。そしてその近所の二三軒ある安宿を訪問して、みんなにお世辞をつかわれてすっかりおさまっているのでした。その安宿にいる人達というのは、血気盛んな若い男なんぞは、薬にしたくもいないで、みんなもうよぼよぼの、たよるところのない老人達ばかりでした。
 当時私共の家には四五人の同志がいて仕事をしていましたけれど、私共の経済は非常に苦しかったのでした。雑誌も出るには出ましたが、それで大勢の人が食べてゆくことなどは到底できないのでした。広告料や、Oの二三の本の印税や、あちこちから受ける補助やで、やっとどうにかOの留守中を凌いでいったのでした。その経済状態はみんなによくわかっていました。茶の間の茶だんすのひき出しに、いつも、ありがね[#「ありがね」に傍点]が入れてありました。みんな、誰でも必要な小づかいはそこから勝手にとることになっていました。が、私共の仲間では、誰も、一銭も無駄な金をそこから持ち出す人はありませんでした。
 私は、子供をひかえておりますし、余計な金も使いますので、小づかいはまったく別にして自分で持っていました。それも時々ひまをさいて書く原稿料や、印税の一部分や、知人達の補足でようよう足りてゆくような状態でした。
 Yは、この経済状態の上に、最も露骨に私への反感を示して、自分の煙草代から小遣いのすべてを、一銭もその共同の会計からは取らずに、乏しい私の財布のみを常にねらうのでした。私はその頃はもう、彼のその反感を充分に知っていましたので、いつも黙って出しました。彼にいわせれば、私共の処にはいる原稿料や印税は、何の労力も払わない金なのでした。で、彼は平気で強奪してもかまわないのだといっていました。私共がどれほど骨を折って物を書いているかなどという事は、彼の考慮の中にはいらないのでした。

       八

 私に対する反感が露骨になって
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