六白金星
織田作之助
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)楢雄《ならを》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一月|許《ばか》り
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)イ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ン
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楢雄《ならを》は生れつき頭が悪く、近眼で、何をさせても鈍臭《どんくさ》い子供だつたが、ただ一つ蠅を獲《と》るのが巧くて、心の寂しい時は蠅を獲つた。蠅といふ奴は横と上は見えるが、正面は見えぬ故、真つ直ぐ手を持つて行けばいいのだと言ひながら、あつといふ間に掌の中へ一匹入れてしまふと、それで心が慰まるらしく、またその鮮かさをひそかに自慢にしてゐるらしく、それが一層楢雄を頭の悪いしよんぼりした子供に見せてゐた。ふと哀れで、だから人がつい名人だと乗せてやると、もうわれを忘れて日が暮れても蠅獲りをやめようともせず、夕闇の中でしきりに眼鏡の位置を直しながらそこら中睨み廻し、その根気の良さはふと狂気めいてゐた。
そんな楢雄を父親の圭介はいぢらしいと思ふ前に、苦々《にがにが》しい感じがイライラと奥歯に来て、ギリギリと鳴つた。圭介は年中土曜の夜宅へ帰つて来て、日曜の朝にはもう見えず、いはばたまにしか顔を見せぬ代り、来るたびの小言だつた。
「莫迦《ばか》な真似をせずに修一を見習へ。」
そんな時、兄の修一はわざとらしい読本の朗読で、学校では級長であつた。見れば兄は頭の大きなところ、眉毛が毛虫のやうに太いところ、口を歪《ゆが》めてものを言ふところなど、父親にそつくりで、その点でも父親の気に入りらしかつた。
が、それにくらべると、楢雄はだいいち眉毛からしてフハフハと薄くて、顔全体がノツペリし、だから自分は父親に嫌はれてゐるのだと、次第にひがみ根性が出た。そして、この根性で向ふと、なほ嫌はれてゐるやうな気がして、いつそサバサバしたが、けれどもやはり子供心に悲しく、嫌はれてゐるのは頭が悪くて学校の出来ないせゐだと、せつせと勉強してみても、しかし兄には追ひ付けず、兄の後《うしろ》でこが異様に飛び出てゐるのを見て、何か溜息つき、溜息つきながら寝るときまつて空を飛ぶ夢、そして明け方には牛に頭を齧《かじ》られる夢を見てゐるうちに、やがて十三になつた。
ある夜、何にうなされたのか、覚えはなかつたが、はつと眼をさますと、蒲団も畳もなくなつてゐて、板の上に寝てゐると思つた、いきなり飛び起きて、
「泥棒や、泥棒や。畳がない。」
乾いた声でおろおろ叫びながら、階下の両親の寝室へはいつて行くと、スタンドがまだついてゐて、
「え、泥棒……?」
と、父親の驚いた手が母の首から離れた。
母も父親の胸から自分の胸を離して、
「畳がどうしたのです。楢雄、しつかりしなさい。」
くるりと床の間の方を向いて、達磨《だるま》の絵にむかつて泥棒や泥棒やと叫びながら、ヒーヒーと青い声を絞りだしてゐる楢雄の変な素振りを、さすがに母親の寿枝はをかしいと思つたのだ。
「二階の畳が一枚もない。眼鏡もとられた。」
そして楢雄はつと出て行くと、便所にはいり、
「津波が来た。大津波が来て蒲団[#「蒲団」は底本では「薄団」]も畳もさらはれた。猿股《さるまた》の紐が流れてくる。」
あらぬことを口走りながらジヤージヤーと板の間の上へ放尿したのち、ふらふらと二階へ上ると、けろりとした顔で元の蒲団の中へもぐり込み、グウグウ鼾《いびき》をかいた。隣の蒲団では、中学二年生の修一が亀の子のやうに首をひつこめて、こつそり煙草を吸ひながらトウシヤ刷りの怪しげな本に読み耽り、楢雄の方は見向きもしなかつた。
それから一月|許《ばか》りたつた雪の朝、まだ夜の明けぬうちから突然玄関の呼鈴《よびりん》が乱暴に鳴つたので、驚いた寿枝が出てみると、楢雄が真青な顔で突つ立つてゐた。二階で寝てゐた筈だのにいつの間に着変へたのか、黒ズボンをはき、メリヤスのシャツ一枚で、びしよ濡れに雪が掛つてゐた。雪の道をさまよひ歩いて来たことが一眼に判り、どうしたのかと肩を掴んだが答へず、栓抜きへうたんのやうなフハフハした足取りで二階へ上つてしまつた。すぐ随《つ》いて上り、見れば枕元には本棚から抜きだした本が堆高《うづたか》く積み重ねられてあり、おまけにその頂上にきちんと畳んだ寝巻をのせ、その寝巻の上へ床の間の菊の花と鉛筆と蜜柑《みかん》が置かれてあつた。
「楢雄、これは何の真似です。」
しかし、楢雄は答へやうがなかつた。寝てゐると、急に得体《えたい》の知れぬ力が自分に迫つて来たのだが、それを防がうとする自分の力が迫つて来る力に較べて弱すぎ、均衡《バランス》が破れたといふ感じがたまら
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