たのつそりした態度がやがて表面《うはべ》に現はれて来て、そしてある夜楢雄は砒素《ひそ》を飲んだ。
 うめき声で眼を覚した寿枝が二階へ上つて見ると、楢雄は土色の顔へ泡を噴きだしてのた打ちまはつてゐた。修一は夕方家を出て行つたきり、まだ帰つてゐなかつた。寿枝は楢雄の口ヘ手を差し込んで吐かせるとあわてて飛びだして近所の医者へかけつけて行つたが、途中でふと気が変り、よその医者に頼めば外聞の悪い結果になると、公衆電話へ飛び込んで、蘆屋の圭介の病院へ電話した。蘆屋と香櫨園はすぐ近くなのに市外通話になつてゐて、なかなか掛らず、もどかしかつた。圭介はダットサンを自分で運転して来た。それで助かつた。吐かせようとして抱きかかへると、ぷんと腋臭《わきが》めくにほひがしたが、それは永年忘れてゐたわが子のにほひだつた。注射を済ませると、寿枝が絆創膏《ばんさうかう》を貼つた。圭介はふと寿枝の顔を見た。寿枝も見た。お互ひふと岡山の病院でのことが頭をかすめ、想ひ出すべき歳月があつた。圭介は手を洗ひながら、しみじみと楢雄の寝顔を覗きこんだ。眼鏡のない眉毛の薄い顔は、まるでデスマスクのやうだつたが、しかし生命は取り止めたとしみじみ思つた。ところが、机の上にこれ見よと置いてある遺書を開いて読み終つた途端、圭介は思はず莫迦者と呶鳴《どな》つた。
 その遺書は右肩下りの下手な字で、おまけに鉛筆で、片仮名を使つて書かれてあり、それが文面の効果を一層どぎつくさせてゐた。
「恋愛ハ神聖ナリ。神ハ実在スルヤ否ヤ。俺ハ結核菌ノ所有者デアルガ、現在ノ父ニモ母ニモ結核菌ハナイ。スルト俺ハ現在ノ父母ノ子デナイトイフ理論ガ成リ立ツ。マタ、俺ノ眉毛ヤ俺ノ皮膚ハレプラニナル可能ガアル。シカルニ現在ノ父母ハレプラデハナイ。俺ハ誰ノ子デアルカ教ヘテクレ。俺ハコノ疑問ヲ抱イテ死ヌノダ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 俺ハ北畠ノ霊媒研究所ヘ行ツテ、十円出シテ霊媒シテ貰ツタ。ソノ結果、俺ハ双生児ノ片割レデアルトイフコトガ判明シタ。モウ一ツノ片割レハ今|樺太《カラフト》ノ炭坑ニヰルハズダ。
 嘘ノ世ノ中ニハアキアキシタ。俺ハイ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ンノ如ク永遠ノ謎ヲ抱キナガラ死ヌ。誰モ俺ガ死ンデモ泣クマイ。俺ハ無垢《ムク》ノ女ヲ凌辱《リヨウジヨク》シヨウトシタノダ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 圭介は近頃興奮するとくらくらと眩暈《めまひ》がし、頭の中がじーんと鳴るので、なるべく物事に臨んで冷静に構へる必要があつた。だから、こんな莫迦げた妄想《まうさう》を起す奴を相手に興奮してはつまらぬと、煙草を吸ひかけたが、手がふるへた。寿枝はおろおろして燐寸《マツチ》をつけた。その瞬間、二人ははつと顔をそむけた。寿枝の眉間《みけん》には深い皺《しわ》が出来、母性を疑はれた不快さがぐつと来たのだつた。そして何といふことなしに修一のことが頼もしく想ひ出されたが、しかし修一はどこをうろついてゐるのか、夜が更けてゐるといふのに、まだ帰つてゐなかつた。

 二年がたつた。楢雄はむくむくと体が大きくなり、自殺を図つた男には見えなかつた。高等学校の入学試験にすべり、高槻《たかつき》の高医へ入学した時も、体格検査は最優良の成績だつた。
 圭介は家へ帰ると、薄暗い階下の部屋で灯もつけさせず、壁を睨んだままぺたりと坐り込んで何時間も動かなかつた。寿枝が呼んでも返辞せず、一所を見つめた眼を動かしもしなかつた。さすがの楢雄もあつけに取られて、圭介のうしろに突つ立つてゐると、
「何をしてゐるのか。」
 うしろ向きの姿勢で呶鳴られた。寿枝はそんな圭介の素振りを見て、何か心に覚悟を決めたらしく一分の隙もないきつとした顔を[#「顔を」は底本では「頭を」]見せてゐた。
 圭介はやがてみるみる狂気じみて、蘆屋の病院で死んだ。危篤の知らせで駈けつけたのは修一ひとり、無論本妻の計らひであつた。死に目に会ふことも許されない寿枝と楢雄は香櫨園の家でソハソハしながら、不安な気持のまま何か殺気立つてゐた。何時間かたち、楢雄は急に、
「さア、お母さん、こんなことしてても仕方がありません。活動でも見に行こやありませんか。」
 と、言つて起ち上つた。まあと寿枝は呆《あき》れたが、しかし瞬間母子の情が通つたと思ひ、だから叱らうとはしなかつた。
 修一は葬式を済ませて帰つて来ると、臨終の模様を語つた。圭介は息を引き取る前不思議にも一瞬正気になり、枕元に集つてゐる中で修一だけをわざと一歩進ませて、母の面倒はお前が見るんだぞと言ひ、その時窓に映つてゐた西日が落ちたさうである。
「それでお前は何と答へたんですか。」寿枝はわれながらもぢもぢ訊くと、
「はあと言ひましたよ」
 と修一は冷《ひやや》かに答へ、そして、ちらつと寿枝の頭を見ると、
「蘆屋の奥さんか
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