でゐたといふかどで、廊下に立たされてゐた。三年B組の教室では、修一は教科書のかげで羽太鋭治の「性の研究」を読んでゐた。
 楢雄が羽太鋭治のその本や、国木田独歩の「正直者」、モーパッサンの「女の一生」、森田草平の「輪廻」などを、修一から読んでみろと貸して貰つたのは、三年生の時だつた。伏字の多いそれらの本が、楢雄の大人を眼覚し、女の体への好奇心がにはかにふくれ上つたある夜、修一が、
「おい、お前にもメッチェンを世話してやらうか。」
 さう言つて楢雄を香櫨園の浜へ連れ出す途々《みちみち》言ふのには、実は俺はある女学生と知り合ひになつたのだが、そいつにはいつも女中《メイド》がついてゐる、今夜も浜で会ふ約束をしてゐるのだが、女中がついて来るから邪魔だ、だからお前はその女中の方を巧く捌《さば》いてくれ、その間に俺はメッチェンの方を云々。
「巧いことやれよ。なに相手はたかが女中《メイド》や。喜んでお前の言ひなりになりよるやろ。デカダンで行け。」
 デカダンとはどんな意味か知らなかつたが、何となくその言葉のどぎつい響きが気に入つて、かねがね楢雄は、俺はデカダンやと言ひふらしてゐたのだつた。
「よつしや。デカダンでやる。」
「煙草飲め!」
 一本の煙草を飲み終らぬうちに、セルの着物を着た十七八の女が、兵児帯《へこおび》の結び目を気にするのか、しきりに尻へ手を当てながら、女中と一緒に、ものも言はず、すつと近づいて来た。どこか隙の多さうな醜い女ぢやないかと、少し斜視掛つたその女の眼を見てゐたが、しかし女中の方は外《そ》ツ歯《ぱ》で鼻の頭がまるく、おまけに色が黒かつた。楢雄はがつかりしたが、やがてノツポの修一が身体を折り曲げるやうにして女に寄り掛りながら歩きだすと、楢雄もあわてて女中に並び、君いくつになつたの。われながら嫌気がさすくらゐ優しい声になつたが、しかし心の中では、何となくその外ツ歯の女中が可哀想になつてゐたのだ。松林の所で修一はちらと振り向いた。途端に楢雄は女中のザラザラした手を握つた。手は瞬間ひつ込められたが、すぐ握り返され、兄の言ふ通りであつた。顔を覗くと、女中はきよとんとした眼で空を見上げてゐた。
「こつちへ行かう。」
 修一と反対の方向へ折れて行き、半町ほど黙つてゐたが、やがて軽い声で、
「おい!」
 ぐいと手を引つ張つてもたれ掛けさせると、いきなり抱き寄せて、口に触れた
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