。相変らずだなと苦笑しながら、物も言はず通り過ぎたが、しかしさすがに修一も楢雄には気づき、帰ると、
「今日楢雄を見ましたよ。この暑いのに合服を着て、ボロ靴をはいて、失業者みたいなみすぼらしい恰好《かつかう》でしたよ。」
 と、寿枝に語つた。合服といふことがまず寿枝の胸をチクリと刺し、なぜ立ち話にでもあの子の居所をきいてくれなかつたのかと、修一の冷淡さを責めた。
 寿枝は私立探偵を雇つて、京阪マーケットに勤めてゐる雪江を尾行して貰ひ、楢雄のアパートをつきとめた。早速出掛けたが、二人は留守で、管理人や隣室の人にきいてみると、月給は雪江の分と合はせて九十五円はいるのだが、そのうち二十円は雪江の親元へ送金するほか、研究費とむやみやたらに買ふ医学書の本代に相当要るので、部屋代と交通費を引くといくらも残らず、予想以上にひどい暮しらしかつた。昼飯を抜く日も多いといふ。寿枝は帰ると為替《かはせ》を組んで、夏服代だと百円送つたが、その金はすぐ送り返されて来た。
「ヒトノ後ヲ尾行シタリ隣室ヘハイツテ散々俺ノ悪口ヲ言ツタリ、俺ノ生活ヲ覗イタリスルコトハ、今後絶対ニヤメテクレ。コノ俺ノ精神ハ金銭デハ堕落シナイゾ。」
 といふ手紙が添へてあつた。寿枝はその手紙を持つて田辺へかけつけ、妹の前で泣いた。そして一緒にアパートに行くと、もう楢雄は引つ越したあとだつた。
 寿枝は楢雄の手紙を持つて親戚や知己を訪れ、手紙を見せて泣くのだつた。修一はそんな恥さらしはやめてくれと呶鳴り、そんな暇があつたら、僕の細君でも探してくれ、細君がないと僕は出世が出来んと、赧《あか》い顔もせずに言つた。寿枝は圭介の友人にたのんで、やつと修一の結婚の相手を見つけたが、見合では修一は断られた。妾の子はやはり駄目だと、修一は寿枝に毒づき、その夜外泊したのを切つ掛けに、殆んど家へ帰らず、たまに帰つても口を利かず、寿枝は老い込んだ。
 ある夜、楢雄が豊中からの帰り途、阪急の梅田の改札口を出ようとすると、老眼鏡を掛けてしよんぼり佇《たたず》んでゐる寿枝の姿を見つけた。待ち伏せされてゐるのだと、すぐ判つて、楢雄はいきなり駈けだして近くの喫茶店へ飛び込み、茶碗へ顔を突つ込むやうにして珈琲《コーヒー》を啜《すす》りながら、俺は母を憎んでゐるのではないと自分に言ひきかせた。ちらつと見ただけだつたが、母の頭は随分白くなつてゐた。もう白粉も塗
前へ 次へ
全21ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング