さい。永い間住所も知らせず、手紙も差し上げず、怒っていらっしゃることと思いますが、そのお詫びかたがたお便りしました。僕は今でも、あなたが苦学生の僕の洋服のほころびを縫って下すった御親切を忘れておりません。御自愛祈ります。
[#ここで字下げ終わり]
 その文面だけでは、姉の喜美子とその大学生がどんな交際《つきあい》をしていたのか、道子には判らなかったが、しかし、読み終って姉の机の抽出の中を探すと果して鴎外の「即興詩人」の文庫本が出て来た。
「お姉さまはなぜこの御本を返さなかったのだろう?」
 と呟いた咄嗟に、あ、そうだわと、道子は思い当った。当時大阪の高等学校の生徒であったその青年は、高等学校を卒業して東京の大学へ行ってしまうと、もうそれきり手紙も寄越さず、居所も知らさなかったのではなかろうか。それ故返そうにも返せなかったのだ。
 たぶん二人の仲は、その生徒よりも三つか四つ歳上の姉が、苦学生だというその境遇に同情して、洋服のほころびを縫ってやったり、靴下の穴にツギを当ててやったりしただけの淡いもので、離れてしまえばそれ切り、居所を知らせる義務もないような、なんでもない仲であったのかも知れ
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