に負けてしまうのが、小人の浅ましさだろうか。謙遜の美徳すら己惚れから発するものだと、口の悪いラ・ロシュフコオあたりは言いそうである。僕とてご多分に洩れず、相応の己惚れである。けれどまた、己惚れをすっかり失ってしまって、うろうろすることも時にはある。鼻の先にぶら下げていた眼鏡を、群衆の波にもまれているうちに失ってしまって間誤まごする人のようになってしまうのだ。そんな時、僕は自分の視力に頼るほかはないのだが、幸い僕は眼が良い。はや僕は己惚れを取り戻すのである。
 僕はこんな風に思うのである。森鴎外でも志賀直哉でも芥川龍之介でも横光利一でも川端康成でも小林秀雄でも頭脳優秀な作家は、皆眼鏡を掛けていない。それに比べると、眼鏡を掛けた作家は云々。僕は眼鏡を掛けていない。だから云々と己惚れるのである。
 そしてまた思うのである。森鴎外や芥川龍之介は驚嘆すべき読書家だ、書物を読むと眼が悪くなる、電車の中や薄暗いところで読むと眼にいけない、活字のちいさな書物を読むと近眼になるなどと言われて、近頃岩波文庫の活字が大きくなったりするけれど、この人達は電車の中でも読み、活字の大小を言わず(もっとも鴎外は母親
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