、魔がさした。
雪子はふらふらとその部屋にはいると、著物を盗んで、自分の部屋に帰って寝巻を脱ぐと、その著物を素早く身につけた。
そして、何くわぬ顔で、宿を出たが、間もなく宿ではその盗難に気がついて、警察へ届けた。
すぐ手配が行われ、雪子は著物の柄が目印になって、つかまったのである。……
雪子が阿倍野橋の宿屋で著物を盗んでつかまった――という、そんな事情は、もちろん豹吉は知らなかった。
だから、なぜ拘引されて行くのか、咄嗟に考えてみても判らなかった。
いや、考えてみる余裕もなかった。雪子がストリート・ガールだから検挙されたのかも知れない――と直感する余裕もなかった。
豹吉の頭に泛んだことは、
「可哀想に警察へ連れて行かれるのだ。とにかく、たすけてやらなくっちゃ……」
と、いうことだけだった。そのほかのことは、何にも泛んで来なかった。
強いて言えば、雪子を警官の手から奪うという、大それた暴挙が「何か人をあっといわせるような破天荒なことを今直ぐしてみなくっちゃ、おれの気が済まない……」
という、たった今さき腹の虫を動かせて来た不意の思いつきに、ピッタリ合っているではないかと咄嗟に自分に云いきかせる余裕だけは、さすがに残っていた。
いや、それがあるからこそ、
「たすけよう」
という気がますます強く起ったのだった。
一旦こうしようと思えば、もうどんなことがあっても、あとへ引かぬのが豹吉の性質だ。
豹吉はじっと息を凝らして雪子を連れた警官のあとをつけていた。
警官は橋を渡ると、真っ直ぐ桜橋の方へ歩いて行った。
雪子の白い手には手錠が痛々しく掛けられている。豹吉はその手からじっと眼をはなさず、
「まず、あの手錠を切ることやな!」
と、ひそかに呟きながら、ついて行った。
「――しかし、あの手錠を切ることは、袂を切るよりは、ちょっとむつかしいぞ!」
そう思ったが、しかし、困難ということほど、豹吉にとっては、実行への誘惑をそそるものはまたとないのだ。
「何くそ!」
と、力んで、豹吉はいつもの蒼白い額を一層蒼白にしていた。
雪子を連れた警官は、桜橋から右へ折れて、梅田新道の方へ歩いて行った。
闇市はすぐ近くだ。
「雪子を奪って、闇市の雑踏の中へまぎれ込むのや」
豹吉はひそかにそう呟いた。
二人はやがて闇市の傍を通り掛った。
「今だ!」
と、豹吉は叫んで、ズボンの中へ手を突っ込んだ。
そして、いきなり足を進めて、すっと警官の背中へ寄って行こうとした途端、闇市の中からやって来た一人の男が、
「兄貴!」
と、かけ寄って来た。
亀吉だった。
「兄貴、ほんまに殺生やぜ」
と、亀吉は口をとがらせた。
「――一体どこうろついてたんや。ほんまに探すのンに苦労したぜ」
「用事なら早く言え」
豹吉は警官に連れて行かれる雪子のうしろ姿を、気にしながら、いらいらした声で言った。
「兄貴、わいに千円くれるという約束やったな」
「うん。おれを驚かせたらなア」
「兄責、びっくりしなや」
亀吉はポケットから紙片を出して、豹吉に見せた。
「今夜十時中之島公園、図書館の前で待つ」
[#地から4字上げ]隼
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豹吉へ
二伸 亀吉の二千円は掏らせて貰った。
悪く思うな。
[#ここで字下げ終わり]
豹吉はちらと眼を通すと、表情一つ変えずに言った。
「なんや、これは……」
「なんや、これは……いうて、済ましてるどころやないぜ、兄貴、これ読んで、びっくりせえへんのか」
「お前に千円やるのはまだ惜しいからな」
と、豹吉は笑った。
「ノンキやなア、兄貴は。これ、隼団からの果し状やぜ」
「判つてる。しかし、お前どうしてこれを……」
手に入れたのかと、きくと、亀吉は、
「知らん間にポケットへはいってたんや。その代り、あの復員軍人に返そう思てた二千円掏られてしもた」
「間抜けめ!」
と、豹吉はどなりつけたが、すぐ微笑して、
「――そやから、昼間ハナヤでお加代が云ったやろ。掏られんように気をつけろって……」
「あ、そやった!」
と、亀吉は頭を押えると、亀のようにすっと首が縮んだ。
豹吉は腕時計を見た。十時を三分過ぎていた。
「弱ったなア」
と、豹吉は呟いた。
「――雪子をたすけるか、中之島公園へ行こうか」
と、迷ったのだ。
出来れば、雪子をたすけたかった。しかし、いくら雪子が好きでも、青蛇団の豹吉ともあろうものが、女のことにかけて、果し状を怖がって逃げたと思われるのは、辛かった。
「臆病者だと思われるのはいやだ。それに、雪子の行先は、どうせ警察だと判ってるんだ。たすけようと思えば、いつでも、たすけられる」
中之島へ行こうと、豹吉は肚をきめた。
「亀公、じゃ、行って来るぜ」
と、豹吉はかけ出そうとし
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