中と少しも変っていない。彼等は家庭に帰れば皆善良なる市井人であり、職場では猫の口が喋る如く民主主義を唱え、杓子の耳が聴く如くそれに耳を傾けている筈だが、しかし、人間を愛することを忘れて、いかなる民主主義者があろうか。
 復員者に冷たく当りたがる人々の気持はむろん判らないわけではなかった。しかし、復員者はすでに人間として帰って来たのだ。いや、むしろ「人間になろうとして」帰って来たのだ。いわば、まだ本当の人間になり切っていないのだ。それだけに、
「なんや、復員か」
 という一言が、彼を悪の華の咲く園に追いやり、太陽の光線よりも夜光虫の光にあこがれさせてしまわないとは、断言できない。
「復員の荷物みたいなもン、一つもないぜ」
 係員は棚の荷物をちらと見廻して言った。
「しかし、預けたことはたしかに預けたんですから……」
 ない筈はないと、小沢が言うと、
「ないもンはない。――誰ぞ取りに来たんやろ」
「取りに来た? ……誰がですか」
「そら知らん。――だいいちチケットを落すのが悪い」
 係員はすっと奥へはいってしまうと、もう小沢がいくら呼んでも出て来なかった。
 小沢はがっかりして、梅田の闇市場の中にある食堂へはいって行くと、ここにもまた大阪の憂鬱があった。

 小沢は朝から――というより、昨夜から何も食べていなかった。
 米を持っていなかったから宿屋では食事を出してくれなかったのだ。
 実は、復員の時にもらった三日分の米を、毛布の中へくるんで大阪駅へ預けて置いたのだった。
 それを受け取って、毛布や長靴を売って、雪子の著物を買い、宿に帰って米を炊いてもらおうと正直に考えていたのだ。
 外で食事が出来るとは、考えも及ばなかったのだ。
 だから、預けた荷物がいつの間にか無くなっていたと判ると、小沢は何よりも先に、
「今日は何にも食えないかも知れんぞ!」
 と、まずそのことを諦めた。
 ところが、あてもなく闇市場を歩いていると、パンを売っているばかりか、食堂の飾窓にはカレーライスの見本もも[#「見本もも」はママ]出ているではないか。
 小沢はいそいそと中へはいったのだ。
「カレーライス出来る……?」
「出来ます」
「ライス……って米なの……?」
「純綿です」
「純綿……?」
 と、きき返したが、
「――ア、そうか。白米か」
 と、すぐ判った。
 値をきくと、十五円だという。
「高い!」
 と、思う前に、小沢はとにかく外で米の飯が食えるという意外な発見に、気持が浮き立っていた。
 十五円という金がこの国の勤労階級の収入の、殆ど一日分――いや、それ以上の大金だということには、小沢は暫らく気がつかなかった。
 その食堂に、どうして白米があるのか、毎日何百杯かのカレーライスを売るだけの米があるのか――ということも、考えなかった。
 ただ、米があるということに安心していた。
「大阪へ帰れば、米は食えないぞとおどかしやがったが、なんのことだ、ちゃんとこうして、あるじゃないか」
 食糧危機だなんて言葉は嘘なんだな――と思いながら、運ばれて来たカレーライスを食べていると、黝ぐろいむくみがむくんで、水が引いたように痩せおとろえた十六、七の薄汚い少女が、垢と泥が蘚苔のようにへばりついている跣足のまま、フラフラとはいって来た。
 そして、中風やみのようにぶるぶる手足をふるわせながら、しょぼんと立っていたが、ふと小沢の足許に二、三粒の飯粒が落ちているのを見るとあっという間にしゃがんで、その飯粒を口に入れた。
 小沢は思わず顔をそむけた。
「昔は乞食もこんな浅ましい真似はしなかった。やっぱり日本は哀れな国になってしまったのか……」
 外で米の飯が食べられる余裕があったのかという咄嗟の安心感は、簡単に消えて、恥も外聞も見栄ももうこの国の人間は失ってしまったのかと情けない――というよりむしろ腹が立った。
 しかし、さすがにその少女があわれで、何か食べさせてやろうと思った途端、隅の方に坐っていた男が、ちらと鋭い眼を輝かせて、
「おい!」
 と、その少女を呼んだ。
「…………」
 娘はだまって振り向いた。
 呼んだのは、四十五六の角刈の男だった。
 和服の着流しに総しぼりの帯、素足に革の草履――という身なりは、どこか遊び人風めいていたが、存外律義そうな顔立ちで、
「腹が空いてるのンか」
 と、きいた声は、女のように優しかった。
「…………」
 娘は答えず、きょとんとした眼で男を見ていた。
「食べたいか……?」
 と、男はにぎり寿司の皿を指した。
「う、う、う……」
 娘はうなずき、うなずきながら鳥の啼くような声を、痩せた喉から、
「う、う、う……」
 絞り、絞り出した。
「なんや、唖か」
 男は自分の耳へ、女のようにきゃしゃで美しい人指し指を当てた。
 耳は聴こえるのかと
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