、素裸で歩いてたらしいね」
「泳ぎを知ったはるとは、知りまへんでしたなア」
「泳ぎか。およばずながら、亀みたいもんだ。あはは……」
 亀ときいて、亀吉は自分のことを言われたのだと、勘違いして、
「あのウ、わては金槌だンね」
 と、黒い顔を突き出した。
「なんだ、お前は……?」
「青蛇団だす」
 亀吉はぱっと上衣を脱ぎ捨てると、背中を見せた。
 青い蛇の刺青!
「お前雪子という女知ってるか……?」
 伊部はいきなりきいた。
 豹吉ははっとした。伊部が雪子を知っているとは意外だった。が、それよりもなぜ、いきなり雪子の名を口にしたのだろうか。

    朝の構図

「偶然というものは、続きだすときりがない」
 と、作者はかつて書いた。
「偶然のない人生ほどつまらぬものはない」
 とも書いた。
 例えば、小沢十吉!
 普通なら、彼は復員直後の無気力な虚脱状態のまま、一種、根こぎにされた人となって、ぼんやり日を送ったところだろうが、深夜雨の四ツ辻で、裸の娘を拾ったという偶然は、次々に偶然を呼んで、まるで欠伸をする暇もないくらい、目まぐるしい一昼夜を過したのだ。
 いわば、雪子を拾った夜から青蛇団の一党を自首させた夜までのまる一昼夜くらい、充実した時間は、かつて小沢を訪れなかった――と言えよう。
 しかも、なお、偶然は小沢をつきまとって離れなかったのだから人生は面白い。
 雨男の行くところ、必ず雨を呼び起すように、この「偶然一代男」の行くところ、必ず降り掛かる偶然があるのである。
 例えば――。
 小沢はS署の玄関で、豹吉たち青蛇団を見送った足で、伊部の家を訪れると、伊部は(むろん)居らず妹の道子ひとり、しょんぼり留守番をしていて、
「兄さんはS署に留置されているのです。どんな悪いことをしたのか、知りませんが、明日あたしに出頭しろと、S署から云って来ました。小沢さん、お願いです。あたしと一緒にS署へ行って下さいません……?」
 と、いうのである。
「S署……?」
 と、小沢はきいて驚いた。実は小沢は……
「――僕も明日S署へ行くんです。いや、行かねばならないんです」
 雪子の釈放のこともあったし、自首した豹吉たちのことも気になっていた。
「じゃ、今夜はここでお泊りになって下さい……」
 若い娘一人では物騒で、寂しい――と、道子は赧くなって、モジモジ言った。
「はア、でも……」
 と、小沢は躊躇したが、考えてみれば宿なしだ。
 夜も更けている。それに、まさかアベノの宿屋へも行けない。
「そうですね」
 と、ちょっと考えるように言って、
「――じゃ、お世話になりますかな」
「はあ。どうぞ!」
 道子の眼は急にいきいきと輝いた。
 小沢はその眼を見ると、はっとした。
 そして、お互い暫く言葉もなくじっと眼と眼を見合っていた。
 道子の顔は何か上気して、ぼうっと赧かった。小沢は自分の顔の筋肉がこわばっているのを、意識してふと心の姿勢が崩れて行く危なさに、はっとした。
 夜は次第に更けて行った。
 が、作者はこの二人にとっては、かなり重要だった一夜を描写する暇をもはやもたない。先を急ごう。
 なぜなら、翌朝小沢と道子がS署へ行った時、二人を待ち受けていた偶然の方が、作者にとって興味が深いからだ。

 小沢と道子がS署へ出頭した時二人を待ち受けていた偶然とは――。
 まず、小沢は雪子の係の刑事に会うて、雪子の釈放を求めた。
 刑事は雪子を留置場から呼び出して、事情をきいた。
 雪子ははじめ、なぜ裸のまま飛び出したのか、その理由を語ろうとしなかったが、小沢が傍から、
「君、何もかも言い給え。こちらではちゃんと判ってるんだよ。ガマンの針助がつかまって、すっかり自白したんだから」
 と言うと、ほっとしてはじめて、裸のまま針助の家を飛び出した理由を語った。
 夜の女だった雪子は、針助と知らずに袖を引いて、針助の家に連れ込まれて、危く刺青をされようとした。
 だから、逃げたのだが、しかし、もしそのことを小沢に言ってしまえば、青蛇団の秘密がばれてしまう――と、おそれたのである。
 雪子は青蛇団とはゆかりはなかったが、青蛇団の豹吉には、弟に対するような愛情を抱いていた。
 だから、青蛇団をかばいたかったのである。
 アベノ橋の宿屋で着物を盗んで逃げたのも、ふと魔がさしたとはいうものの、実は小沢が帰って来て、いろいろ問い訊されると、もう隠し切れないかも知れない――と、思ったからと、一つには、これ以上小沢に心配をかけたくない――と、思ったからだった。
 その雪子の話をきいて、一番喜んだのは誰か。むろん道子である。
「あ、そうだったのか。小沢さんが女の着物がほしいとおっしゃってたのは、そのためだったのか」
 道子は小沢を疑っていたことを、済まなく思った。
 雪子はそんな
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