ど、あかんわ」
 小さい方の三郎は悲しい顔もせずに、簡単に諦らめていた。
「なんぜあかんネん……?」
「きかんでも判ってるやないか。銭があらへん」
「不景気なことを云うな。なんぼ戦争に負けた云うたかテ、珈琲の味ぐらい覚えてもかめへんぞ。どや、おれが飲ましたろか。本物のブラジル珈琲やぞ」
 豹吉が言うと、ブラジル珈琲とはどんなものか、二人にはまるで判らなかったが、びっくりしたような眼を、一層くるくるさせて、
「ほんまか、大将!」
 十八の豹吉を大将と呼んだ。
「大将大将いうな。日本に大将なんかあるもんか。さア、二人とも道具かたづけて、おれの尻について来い」
 やがて豹吉が南海通の方へ大股で歩き出すと、次郎と三郎は転げるようにしてチョコチョコついて来た。
 南海通の波屋書房の二、三軒先き、千日前通へ出る手前の、もと出雲屋のあったところに、ハナヤという喫茶店が出来ていた。
 ハナヤはもと千日前の弥生座の筋向いにあった店だが、焼けてしまったので、この場所へ新らしくバラックを建てたらしかった。
 バラックだが、安っぽい荒削の木材の生なましさや、俗々しいペンキ塗り立ての感じはなく、この界隈では垢抜けした装飾の店だった。
 豹吉はハナヤの前で再び腕時計をみた。十時……。
「丁度だ」
 はいろうとした途端、中から出て来た一人の男がどすんと豹吉に突き当りざまに豹吉の上衣のかくしへ手を入れようとした。
「間抜けめ!」
 低いが、豹吉の声は鋭かった。
 男はあっと自分の手首を押えた。血が流れていたのだ。
 鋭利な刃物が咄嗟に走ったらしかった。走らせたのは豹吉だ。
 豹吉はあっけに取られている男の耳へ口を近づけると、
「掏るなら、相手を見て仕事しろ」
「豹吉だなア」
 男はきっと睨みつけると、覚えていろと、雑踏の中へ姿を消した。
「間抜けめ! お前のような間抜けのことをいつまでも覚えてられるか」
 ひょいと出た洒落に押し出されるような軽い足取りを弾ませて、兄弟を連れてはいると、豹吉は素早く店の中を見廻した。いない……すかされた想いに軽く足をすくわれて、ちょぼんと重く坐ると、
「なんや、雪子はまだ来てないのか」
 めずらしく寂しい影がふと眉の上を走った。
 雪子――。
 記憶の良い読者は覚えているだろう。
 小沢と一緒に阿倍野橋の宿屋に泊った裸の娘が、宿帳をつける時「雪子」と自分の名を言った
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