りむつつり音楽を聴くといふのも何かチグハグであらう。しかし、私はその主人に向つて、いきなり善書堂のことや町のことなどを話しかける気もべつだん起らなかつたので、黙つて何枚かのレコードを聴いた。かつて少年倶楽部から笑話の景品に二十四穴のハモニカを貰ひ、それが機縁となつて中学校へはいるとラムネ倶楽部《クラブ》といふハモニカ研究会に籍を置いて、大いに音楽に傾倒したことなど想ひ出しながら、聴き終ると、咽喉《のど》が乾いたので私は水を所望し、はい只今と主人がひつこんだ隙に、懐中から財布をとりだしてひそかに中を覗いた。主人はすぐ出て来て、コップを置く前に、素早く台の上を拭いた。
 何枚かのレコードを購《もと》めて出ようとすると、雨であつた。狐の嫁入りだから直ぐやむだらうと暫らく待つてゐたが、なかなかやみさうになく、本降りになつた。主人は私が腕時計を覗いたのを見て、お急ぎでしたら、と傘を貸してくれた。区役所からの帰り、市電に乗らうとした拍子に、畳んだ傘の矢野といふ印が眼に止まり、あゝ、あの矢野だつたかと、私ははじめて想ひだした。
 京都の学生街の吉田に矢野精養軒といふ洋食屋があつた。かつてのそこの主人
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