といふ本屋であつた。「少年倶楽部」や「蟻の塔」を愛読し、熱心なその投書家であつた私は、それらの雑誌の発売日が近づくと、私の応募した笑話が活字になつてゐるかどうかをたしかめるために、日に二度も三度もその本屋へ足を運んだものである。善書堂は古本や貸本も扱つてゐて、立川文庫もあつた。尋常六年生の私が国木田独歩の「正直者」や森田草平の「煤煙」や有島武郎の「カインの末裔《まつえい》」などを読み耽つて、危く中学校へ入り損ねたのも、ここの書棚を漁《あさ》つたせゐであつた。
その善書堂が今はもうなくなつてゐるのである。主人は鼻の大きな人であつた。古本を売る時の私は、その鼻の大きさが随分気になつたものだと想ひ出しながら、今は「矢野名曲堂」といふ看板の掛つてゐるかつての善書堂の軒先に佇《たたず》んでゐると、隣の標札屋の老人が、三十年一日の如く標札を書いてゐた手をやめて、じろりとこちらを見た。そのイボの多い顔に見覚えがある。私は挨拶しようと思つて近寄つて行つたが、その老人は私に気づかず、そして何思つたか眼鏡を外すと、すつと奥へひつこんでしまつた。私はすかされた想ひをもて余し、ふと矢野名曲堂へはいつて見よう
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