新坊の……と重ねてきくと、さいなと老人はうなづき、新坊が家を恋しがつて、いくら言ひきかせても帰りたがるので、主人は散々思案したあげく、いつそ一家をあげて新坊のゐる名古屋へ行き、寝起きを共にして一緒に働けば新坊ももう家を恋しがることもないわけだ、それよりほかに新坊の帰りたがる気持をとめる方法はないし、まごまごしてゐると、自分にも徴用が来るかも知れないと考へ、二十日ほど前に店を畳んで娘さんと一緒に発《た》つてしまつた、娘さんも会社をやめて新坊と一緒に働くらしい、なんといつても子や弟いふもんは可愛いもんやさかいなと、もう七十を越したかと思はれる標札屋の老人はぼそぼそと語つて、眼鏡を外し、眼やにを拭いた。私がもとこの町の少年であつたといふことには気づかぬらしく、私ももうそれには触れたくなかつた。
 口繩坂《くちなはざか》は寒々と木が枯れて、白い風が走つてゐた。私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思つた。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直つて来たやうに思はれた。風は木の梢にはげしく突つ掛つてゐた。
[#地から1字上げ](昭和十九年三月)



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