ばうと思つた。そして祭の夜店で何か買つてやることを、ひそかに楽しみながら、わざと夜をえらんで名曲堂へ行くと、新坊はつい最近名古屋の工場へ徴用されて今はそこの寄宿舎にゐるとのことであつた。私は名曲堂へ来る途中の薬屋で見つけたメタボリンを新坊に送つてやつてくれと渡して、レコードを聞くのは忘れて、ひとり祭見物に行つた。
 その日行つたきり、再び仕事に追はれて名曲堂から遠ざかつてゐるうちに、夏は過ぎた。部屋の中へ迷ひ込んで来る虫を、夏の虫かと思つて団扇《うちは》で敲《たた》くと、チリチリと哀れな鳴声のまま息絶えて、もう秋の虫である。ある日名曲堂から葉書が来た。お探しのレコードが手にはいつたから、お暇の時に寄つてくれと娘さんの字らしかつた。ボードレエルの「旅への誘ひ」をデュパルクの作曲でパンセラが歌つてゐる古いレコードであつた。このレコードを私は京都にゐた時分持つてゐたが、その頃私の下宿へ時々なんとなく遊びに来てゐた女のひとが誤つて割つてしまひ、そしてそのひとはそれを苦にしたのかそれきり顔を見せなくなつた。肩がずんぐりして、ひどい近眼であつたが、二年前その妹さんがどうして私のことを知つたのか、そ
前へ 次へ
全20ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング