台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたへた鬱蒼《うつそう》たる緑の色が、煙と埃に濁つた大気の中になほ失はれずにそこにあることがうなづかれよう。
そこは俗に上町とよばれる一角である。上町に育つた私たちは船場、島ノ内、千日前界隈へ行くことを「下へ行く」といつてゐたけれども、しかし俗にいふ下町に対する意味での上町ではなかつた。高台にある町ゆゑに上町とよばれたまでで、ここには東京の山の手といつたやうな意味も趣きもなかつた。これらの高台の町は、寺院を中心に生れた町であり、「高き屋に登りてみれば」と仰せられた高津宮の跡をもつ町であり、町の品格は古い伝統の高さに静まりかへつてゐるのを貴しとするのが当然で、事実またその趣きもうかがはれるけれども、しかし例へば高津表門筋や生玉の馬場先や中寺町のガタロ横町などといふ町は、もう元禄の昔より大阪町人の自由な下町の匂ひがむんむん漂うてゐた。上町の私たちは下町の子として育つて来たのである。
路地の多い――といふのはつまりは貧乏人の多い町であつた。同時に坂の多い町であつた。高台の町として当然のことである。「下へ行く」といふのは、坂を
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