》している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを見て、そのままはいって掛け合い、連《つ》れ戻《もど》した。そして所望《しょもう》されるままに曾根崎《そねざき》新地《しんち》のお茶屋へおちょぼ(芸者の下地《したじ》ッ子《こ》)にやった。
種吉の手に五十円の金がはいり、これは借金|払《ばら》いでみるみる消えたが、あとにも先にも纏《まと》まって受けとったのはそれきりだった。もとより左団扇《ひだりうちわ》の気持はなかったから、十七のとき蝶子が芸者になると聞いて、この父はにわかに狼狽《ろうばい》した。お披露目《ひろめ》をするといってもまさか天婦羅を配って歩くわけには行かず、祝儀《しゅうぎ》、衣裳《いしょう》、心付けなど大変な物入りで、のみこんで抱主《かかえぬし》が出してくれるのはいいが、それは前借になるから、いわば蝶子を縛《しば》る勘定《かんじょう》になると、反対した。が、結局持前の陽気好きの気性が環境《かんきょう》に染まって是非に芸者になりたいと蝶子に駄々《だだ》をこねられると、負けて、種吉は随分工面した。だから、辛《つら》い勤めも皆《みな》親のためという俗句は蝶子に当て嵌《はま》らぬ。不粋《ぶすい》な客から、芸者になったのはよくよくの訳があってのことやろ、全体お前の父親は……と訊《き》かれると、父親は博奕打《ばくちう》ちでとか、欺されて田畑をとられたためだとか、哀れっぽく持ちかけるなど、まさか土地柄《とちがら》、気性柄蝶子には出来なかったが、といって、私《わて》を芸者にしてくれんようなそんな薄情《はくじょう》な親テあるもんかと泣きこんで、あわや勘当《かんどう》さわぎだったとはさすがに本当のことも言えなんだ。「私のお父つぁんは旦《だん》さんみたいにええ男前や」と外《そ》らしたりして悪趣味《あくしゅみ》極まったが、それが愛嬌《あいきょう》になった。――蝶子は声自慢《こえじまん》で、どんなお座敷《ざしき》でも思い切り声を張り上げて咽喉《のど》や額に筋を立て、襖紙《ふすまがみ》がふるえるという浅ましい唄《うた》い方をし、陽気な座敷には無くてかなわぬ妓《こ》であったから、はっさい(お転婆《てんば》)で売っていたのだ。――それでも、たった一人《ひとり》、馴染《なじ》みの安化粧品問屋《やすけしょうひんどんや》の息子《むすこ》には何もかも本当のことを言った。
維康柳吉《これやすりゅうきち》といい、女房もあり、ことし四つの子供もある三十一歳の男だったが、逢《あ》い初めて三月《みつき》でもうそんな仲になり、評判立って、一本になった時の旦那《だんな》をしくじった。中風で寝《ね》ている父親に代って柳吉が切り廻している商売というのが、理髪店《りはつてん》向きの石鹸《せっけん》、クリーム、チック、ポマード、美顔水、ふけとりなどの卸問屋《おろしどんや》であると聞いて、散髪屋へ顔を剃《そ》りに行っても、其店《そこ》で使っている化粧品のマークに気をつけるようになった。ある日、梅田新道《うめだしんみち》にある柳吉の店の前を通り掛ると、厚子《あつし》を着た柳吉が丁稚《でっち》相手に地方送りの荷造りを監督《かんとく》していた。耳に挟《はさ》んだ筆をとると、さらさらと帖面《ちょうめん》の上を走らせ、やがて、それを口にくわえて算盤《そろばん》を弾《はじ》くその姿がいかにもかいがいしく見えた。ふと視線が合うと、蝶子は耳の附根《つけね》まで真赧《まっか》になったが、柳吉は素知らぬ顔で、ちょいちょい横眼《よこめ》を使うだけであった。それが律儀者《りちぎもの》めいた。柳吉はいささか吃《ども》りで、物をいうとき上を向いてちょっと口をもぐもぐさせる、その恰好《かっこう》がかねがね蝶子には思慮《しりょ》あり気に見えていた。
蝶子は柳吉をしっかりした頼《たの》もしい男だと思い、そのように言《い》い触《ふ》らしたが、そのため、その仲は彼女の方からのぼせて行ったといわれてもかえす言葉はないはずだと、人々は取沙汰《とりざた》した。酔《よ》い癖《ぐせ》の浄瑠璃《じょうるり》のサワリで泣声をうなる、そのときの柳吉の顔を、人々は正当に判断づけていたのだ。夜店の二銭のドテ焼(豚《ぶた》の皮身を味噌《みそ》で煮《に》つめたもの)が好きで、ドテ焼さんと渾名《あだな》がついていたくらいだ。
柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へしばしば蝶子を連れて行った。彼にいわせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南に限るそうで、それも一流の店は駄目や、汚《きたな》いことを言うようだが銭を捨てるだけの話、本真《ほんま》にうまいもん食いたかったら、「一ぺん俺《おれ》の後へ随《つ》いて……」行くと、無論一流の店へははいらず、よくて高津《こうづ》の湯豆腐屋《ゆどうふや》、下は夜
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