ぐ東京行きの汽車に乗った。
 八月の末で馬鹿《ばか》に蒸し暑い東京の町を駆けずり廻り、月末にはまだ二三日|間《ま》があるというのを拝み倒《たお》して三百円ほど集ったその足で、熱海《あたみ》へ行った。温泉芸者を揚げようというのを蝶子はたしなめて、これからの二人《ふたり》の行末のことを考えたら、そんな呑気《のんき》な気イでいてられへんともっともだったが、勘当といってもすぐ詫びをいれて帰り込む肚の柳吉は、かめへん、かめへん。無断で抱主のところを飛出して来たことを気にしている蝶子の肚の中など、無視しているようだった。芸者が来ると、蝶子はしかし、ありったけの芸を出し切って一座を浚《さら》い、土地の芸者から「大阪《おおさか》の芸者衆にはかなわんわ」と言われて、わずかに心が慰《なぐさ》まった。
 二日そうして経《た》ち、午頃《ひるごろ》、ごおッーと妙《みょう》な音がして来た途端に、激《はげ》しく揺《ゆ》れ出した。「地震《じしん》や」「地震や」同時に声が出て、蝶子は襖に掴《つか》まったことは掴まったが、いきなり腰を抜《ぬ》かし、キャッと叫んで坐《すわ》り込んでしまった。柳吉は反対側の壁《かべ》にしがみついたまま離《はな》れず、口も利けなかった。お互《たが》いの心にその時、えらい駈落ちをしてしまったという悔《くい》が一瞬《いっしゅん》あった。

 避難《ひなん》列車の中でろくろく物も言わなかった。やっと梅田の駅に着くと、真《まっ》すぐ上塩町《かみしおまち》の種吉の家へ行った。途々《みちみち》、電信柱に関東大震災の号外が生々しく貼《は》られていた。
 西日の当るところで天婦羅を揚げていた種吉は二人の姿を見ると、吃驚《びっくり》してしばらくは口も利けなんだ。日に焼けたその顔に、汗とはっきり区別のつく涙が落ちた。立ち話でだんだんに訊《き》けば、蝶子の失踪《しっそう》はすぐに抱主から知らせがあり、どこにどうしていることやら、悪い男にそそのかされて売り飛ばされたのと違うやろか、生きとってくれてるんやろかと心配で夜も眠《ねむ》れなんだという。悪い男|云々《うんぬん》を聴き咎《とが》めて蝶子は、何はともあれ、扇子《せんす》をパチパチさせて突《つ》っ立っている柳吉を「この人|私《わて》の何や」と紹介《しょうかい》した。「へい、おこしやす」種吉はそれ以上|挨拶《あいさつ》が続かず、そわそわしてろくろく顔もよう見なかった。
 お辰は娘の顔を見た途端に、浴衣《ゆかた》の袖《そで》を顔にあてた。泣き止《や》んで、はじめて両手をついて、「このたびは娘がいろいろと……」柳吉に挨拶し、「弟の信一《しんいち》は尋常《じんじょう》四年で学校へ上っとりますが、今日《きょう》は、まだ退《ひ》けて来とりまへんので」などと言うた。挨拶の仕様がなかったので、柳吉は天候のことなど吃り勝ちに言うた。種吉は氷水を註文《いい》に行った。
 銀蠅《ぎんばえ》の飛びまわる四|畳《じょう》の部屋《へや》は風も通らず、ジーンと音がするように蒸し暑かった。種吉が氷いちごを提箱《さげばこ》に入れて持ち帰り、皆は黙々《もくもく》とそれをすすった。やがて、東京へ行って来た旨《むね》蝶子が言うと、種吉は「そら大変や、東京は大地震や」吃驚《びっくり》してしまったので、それで話の糸口はついた。避難列車で命からがら逃げて来たと聞いて、両親は、えらい苦労したなとしきりに同情した。それで、若い二人、とりわけ柳吉はほっとした。「何とお詫びしてええやら」すらすら彼は言葉が出て、種吉とお辰はすこぶる恐縮《きょうしゅく》した。
 母親の浴衣を借りて着替《きか》えると、蝶子の肚はきまった。いったん逐電《ちくでん》したからにはおめおめ抱主のところへ帰れまい、同じく家へ足踏み出来ぬ柳吉と一緒に苦労する、「もう芸者を止めまっさ」との言葉に、種吉は「お前の好きなようにしたらええがな」子に甘《あま》いところを見せた。蝶子の前借は三百円足らずで、種吉はもはや月賦《げっぷ》で払う肚を決めていた。「私《わて》が親爺《おやじ》に無心して払いまっさ」と柳吉も黙《だま》っているわけに行かなかったが、種吉は「そんなことしてもろたら困りまんがな」と手を振《ふ》った。「あんさんのお父つぁんに都合《ぐつ》が悪うて、私は顔合わされしまへんがな」柳吉は別に異を樹《た》てなかった。お辰は柳吉の方を向いて、蝶子は痲疹厄《はしか》の他には風邪《かぜ》一つひかしたことはない、また身体《からだ》のどこ探してもかすり傷一つないはず、それまでに育てる苦労は……言い出して泪の一つも出る始末に、柳吉は耳の痛い気がした。

 二三日、狭苦しい種吉の家でごろごろしていたが、やがて、黒門市場の中の路地裏に二階借りして、遠慮気兼ねのない世帯《しょたい》を張った。階下《した》は弁当や寿司につか
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