まだ病後の体で、滋養剤《じようざい》を飲んだり、注射を打ったりして、そのためきびしい物入りだったから、半年経っても三十円と纏まった金はたまらなかった。
ある夕方、三味線のトランクを提げて日本橋一丁目の交叉点《こうさてん》で乗換《のりか》えの電車を待っていると、「蝶子はんと違いまっか」と話しかけられた。北の新地で同じ抱主の所で一つ釜の飯を食っていた金八という芸者だった。出世しているらしいことはショール一つにも現われていた。誘われて、戎橋《えびすばし》の丸万でスキ焼をした。その日の稼ぎをフイにしなければならぬことが気になったが、出世している友達の手前、それと言って断ることは気がひけたのだ。抱主がけちんぼで、食事にも塩鰯一|尾《び》という情けなさだったから、その頃お互い出世して抱主を見返してやろうと言い合ったものだと昔話が出ると、蝶子は今の境遇《きょうぐう》が恥かしかった。金八は蝶子の駈落ち後間もなく落籍《ひか》されて、鉱山師の妾となったが、ついこの間本妻が死んで、後釜に据えられ、いまは鉱山の売り買いに口出しして、「言うちゃ何やけど……」これ以上の出世も望まぬほどの暮しをしている。につけても、想い出すのは、「やっぱり、蝶子はん、あんたのことや」抱主を見返すと誓った昔の夢を実現するには、是非蝶子にも出世してもらわねばならぬと金八は言った。千円でも二千円でも、あんたの要るだけの金は無利子の期間なしで貸すから、何か商売する気はないかと、事情を訊くなり、早速言ってくれた。地獄で仏とはこのことや、蝶子は泪が出て改めて、金八が身につけるものを片《かた》ッ端《ぱし》から褒めた。「何商売がよろしおまっしゃろか」言葉使いも丁寧《ていねい》だった。「そうやなア」丸万を出ると、歌舞伎《かぶき》の横で八卦見に見てもらった。水商売がよろしいと言われた。「あんたが水商売でわては鉱山《やま》商売や、水と山とで、なんぞこんな都々逸《どどいつ》ないやろか」それで話はきっぱり決った。
帰って柳吉に話すと、「お前もええ友達持ってるなア」とちょっぴり皮肉めいた言い方だったが、肚の中では万更《まんざら》でもないらしかった。
カフェを経営することに決め、翌日早速周旋屋を覗きまわって、カフェの出物《でもの》を探した。なかなか探せぬと思っていたところ、いくらでも売物があり、盛業中のものもじゃんじゃん売りに出ている
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