つものように三味線をいれたトランクを提げて出掛けたが、心は重かった。柳吉が親の家へ紋附を取りに行ったというただそれだけの事として軽々しく考えられなかった。そこには妻も居れば子もいるのだ。三味線の音色は冴《さ》えなかった。それでも、やはり襖紙がふるえるほどの声で歌い、やっとおひらきになって、雪の道を飛んで帰ってみると、柳吉は戻っていた。火鉢《ひばち》の前に中腰になり、酒で染まった顔をその中に突っ込むようにしょんぼり坐っているその容子《ようす》が、いかにも元気がないと、一目でわかった。蝶子はほっとした。――父親は柳吉の姿を見るなり、寝床《ねどこ》の中で、何しに来たと呶鳴《どな》りつけたそうである。妻は籍《せき》を抜いて実家に帰り、女の子は柳吉の妹の筆子が十八の年で母親代りに面倒《めんどう》みているが、その子供にも会わせてもらえなかった。柳吉が蝶子と世帯を持ったと聴いて、父親は怒《おこ》るというよりも柳吉を嘲笑《ちょうしょう》し、また、蝶子のことについてかなりひどい事を言ったということだった。――蝶子は「私《わて》のこと悪う言やはんのは無理おまへん」としんみりした。が、肚の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなとひそかに柳吉の父親に向って呟く気持を持った。自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんの後釜《あとがま》に坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望《ほんもう》や」そう思うことは涙をそそる快感だった。その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井《てんじょう》を睨《にら》んでいた。
 まえまえから、蝶子はチラシを綴《と》じて家計簿《かけいぼ》を作り、ほうれん草三銭、風呂銭《ふろせん》三銭、ちり紙四銭、などと毎日の入費を書き込んで世帯を切り詰め、柳吉の毎日の小遣い以外に無駄な費用は慎《つつし》んで、ヤトナの儲けの半分ぐらいは貯金していたが、そのことがあってから、貯金に対する気の配り方も違って来た。一銭二銭の金も使い惜《お》しみ、半襟《はんえり》も垢《あか》じみた。正月を当てこんでうんと材料《もと》を仕入れるのだとて、種吉が仕入れの金を無心に来ると、「私《わて》には金みたいなもんあらへん」種吉と入れ代ってお辰が「維康さんにカフェたらいうとこイ行かす金あってもか」と言いに来たが、うんと言
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