う折箱の職人で、二階の六畳はもっぱら折箱の置場にしてあったのを、月七円の前払いで借りたのだ。たちまち、暮《くら》しに困った。
 柳吉に働きがないから、自然蝶子が稼《かせ》ぐ順序で、さて二度の勤めに出る気もないとすれば、結局稼ぐ道はヤトナ芸者と相場が決っていた。もと北の新地にやはり芸者をしていたおきんという年増《としま》芸者が、今は高津に一軒構えてヤトナの周旋屋《しゅうせんや》みたいなことをしていた。ヤトナというのはいわば臨時雇で宴会《えんかい》や婚礼《こんれい》に出張する有芸仲居のことで、芸者の花代よりは随分安上りだから、けちくさい宴会からの需要が多く、おきんは芸者上りのヤトナ数人と連絡《れんらく》をとり、派出させて仲介《ちゅうかい》の分をはねると相当な儲《もう》けになり、今では電話の一本も引いていた。一宴会、夕方から夜更《よふ》けまでで六円、うち分をひいてヤトナの儲けは三円五十銭だが、婚礼の時は式役代も取るから儲けは六円、祝儀もまぜると悪い収入《みい》りではないとおきんから聴いて、早速《さっそく》仲間にはいった。
 三味線《しゃみせん》をいれた小型のトランク提げて電車で指定の場所へ行くと、すぐ膳部《ぜんぶ》の運びから燗《かん》の世話に掛《かか》る。三、四十人の客にヤトナ三人で一通り酌《しゃく》をして廻るだけでも大変なのに、あとがえらかった。おきまりの会費で存分愉しむ肚の不粋な客を相手に、息のつく間もないほど弾《ひ》かされ歌わされ、浪花節《なにわぶし》の三味から声色《こわいろ》の合の手まで勤めてくたくたになっているところを、安来節《やすぎぶし》を踊《おど》らされた。それでも根が陽気好きだけに大して苦にもならず身をいれて勤めていると、客が、芸者よりましや。やはり悲しかった。本当の年を聞けば吃驚《びっくり》するほどの大年増の朋輩《ほうばい》が、おひらきの前に急に祝儀を当てこんで若い女めいた身振りをするのも、同じヤトナであってみれば、ひとごとではなかった。夜更けて赤電車で帰った。日本橋一丁目で降りて、野良犬《のらいぬ》や拾い屋(バタ屋)が芥箱《ごみばこ》をあさっているほかに人通りもなく、静まりかえった中にただ魚の生臭《なまぐさ》い臭気《しゅうき》が漂《ただよ》うている黒門市場の中を通り、路地へはいるとプンプン良い香《にお》いがした。
 山椒昆布《さんしょこんぶ》を煮る香い
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