の空気というものは、何としてもいやだった。丸亀の料理場を想出すからであろうか。そんな心の底に、美津子のことがあった。
 しかし、結局は居辛くて、浅草の寿司屋へ住込みで雇われた。やらせて見ると一人前の腕をもっているが、二十三とは本当に出来ないほど頼りない男だと見られて、それだけに使い易いからと追い廻しという資格であった。あがりだよ。へえ。さびを擦りな。へえ。皿を洗いな。宜ろしおま。目の廻るほど追い廻された。わさびを擦っていると、涙が出て来て、いつの間にかそれが本当の涙になりシクシク泣いた。出世する気で東京へ来たというものの、末の見込みが立とう筈もなかった。
 ある夜、下腹部に急激な痛みが来て、我慢しきれなく、休ませて貰い、天井の低い二階の雇人部屋で寝ころんでいる内に、体が飛び上るほどの痛さになり、痛アい! 痛アい! と呶鳴った。
 声で吃驚して上って来た女中が土色になった顔を見ると、あわてて医者を呼びに行った。脱腸の悪化で、手術ということになった。十日余り寝た切りで静養して、やっと起き上れるようになった時、はじめて主人が、身寄りの者はないのかと訊ねた。大阪にありますと答えると、大阪までの
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