が白い。痩《や》せた肩《かた》に湯気《ゆげ》が立つ。ピシ、ピシと敲《たた》かれ、悲鳴をあげ、空を噛《か》みながら、やっと渡ることができる。それまでの苦労は実に大変だ。彼《かれ》は見ていて胸が痛む。轍の音がしばらく耳を離《はな》れないのだ。
雨降りや雨上りの時は、蹄がすべる。いきなり、四つ肢をばたばたさせる。おむつをきらう赤《あか》ん坊《ぼう》のようだ。仲仕が鞭でしばく。起きあがろうとする馬のもがきはいたましい。毛並《けなみ》に疲労の色が濃《こ》い。そんな光景を立ち去らずにあくまで見て胸を痛めているのは、彼には近頃|自虐《じぎゃく》めいた習慣になっていた。惻隠《そくいん》の情もじかに胸に落ちこむのだ。以前はちらと見て、通り過ぎていた。
ある日、そんな風にやっとの努力で渡って行った轍の音をききながら、ほっとして欄干《らんかん》をはなれようとすると、一人《ひとり》の男が寄ってきた。貧乏《びんぼう》たらしく薄汚い。哀《あわ》れな声で、針中野《はりなかの》まで行くにはどう行けばよいのかと、紀州訛《きしゅうなまり》できいた。渡辺橋から市電で阿倍野《あべの》まで行き、そこから大鉄電車で――と説明しかけると、いや、歩いて行くつもりだと言う。そら、君、無茶だよ。だって、ここから針中野まで何里……あるかもわからぬ遠さにあきれていると、実は、私は和歌山の者ですが、知人を頼《たよ》って西宮まで訪ねて行きましたところ、針中野というところへ移転したとかで、西宮までの電車賃はありましたが、あと一文もなく、朝から何も食べず、空腹をかかえて西宮からやっとここまで歩いてやって来ました、あと何里ぐらいありますか。半分泣き声だった。
思わず、君、失礼だけれどこれを電車賃にしたまえと、よれよれの五十銭|銭《ぜに》を男の手に握《にぎ》らせた。けっしてそれはあり余る金ではなかったが、惻隠の情はまだ温く尾《お》をひいていたのだ。男はぺこぺこ頭を下げ、立ち去った。すりきれた草履《ぞうり》の足音もない哀れな後姿だった。
それから三日|経《た》った夕方、れいのように欄干に凭《もた》れて、汚い川水をながめていると、うしろから声をかけられた。もし、もし、ちょっとお伺《うかが》いしますがのし、針中野ちうたらここから……振《ふ》り向いて、あっ、君はこの間の――男は足音高く逃《に》げて行った。その方向から荷馬車が来た。馬
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