三条通りの角をカーブしたジープが、みるみる河原町の六角通り方に小さくなって行くのを見送っていると、
「もう、渡れる。兄ちゃん、さア渡ろう」
 京吉の手をひっぱるようにして横切った娘は、
「兄ちゃん、あたいと歩くのンいや……?」

      四

 二言目には兄ちゃん兄ちゃんとうるさいくらい、繰りかえすのが、娘にはたのしい癖のようだった。
 しかし、それがふと哀れじみて聴えたのは、この娘の孤独のせいだろうか。浮浪し、流転して来た一年余りの歳月の間に覚えた悲しい人恋いの歌のリフレエンのようだった。
 すくなくとも、京吉の耳には悲しい響きに聴えた。孤独と放浪の淀の水車のようなリズムが人一倍判る京吉だった。だから、
「兄ちゃん、あたいと一緒に歩くのンいや……?」
 と言いながら、そっと覗きこんで顔色をうかがう十二歳の娘の気持は、三十女が何気なくすり寄せて来る肩の柔い体温の意味よりも、もっと身近に読み取れて、その言葉の何か故郷を持たぬ訛りにも、しびれるようななつかしさを感じた。
 しかし、それにしても、この娘の熱っぽい眼は一体何であろう。
「おれと一緒に歩くと、誘拐されるぞ!」
 京吉は肩を並べて歩きながら言った。
「うん、兄ちゃん誘拐して!」
「汽車に乗って、どこかへ行こうか。牛小屋や水車小屋のある百姓家で泊めて貰ったり、どっかの家の軒先で、ラジオの音が家の中から流れて来るのを聴いたり、降るような星空にすっと星が流れるのを見たりしながら野宿したり、行き当りばったりの小さな駅で降りると、こんな所にも小さな町があって、汚い映画館のアトラクションのビラに、ホールを追い出された顔馴染みのアコーディオン弾きの名前が出ているのを見て、なつかしさに涙がこぼれたり、さびれた温泉場の宿屋で宿賃が払えなくなって、兄ちゃんは客引に雇われ、お前は交換手に雇われて……」
「兄ちゃん、誘拐して! 誘拐して!」
 京吉の眼もふとうるんでいたが、娘の眼も濡れていた。
 河原町通りの雑閙の中で、ふと旅への郷愁を語るくらい、京吉は感傷的になっていたのだ。が、本当にこの娘と一緒に放浪しようかという気持がふっと起ったのは、昨夜茉莉のお通夜にやって来なかった陽子への面当てだろうか。
「陽子はきっと誘惑されたんだ。田村で泊ったんだ。だから、来られなかったんだ」
 女は何人も知って来たが、恋は一度もしなかった京吉だった。女と関係しながら、恋だけはもっと素晴しい女とするんだと夢を抱いて来たのだ。そして、陽子となら恋が出来そうな気がした。いや、もう恋になっているかも知れない。すくなくとも恋心めいたなつかしさは感じていた。だから、ほかのダンサーとは踊っても、陽子とは踊ろうとしなかったのだ。抱いて踊るには、陽子は京吉にとって余りに処女であった。どんな女にも生理的に抵抗できない自分の踊りの技巧の中へ、陽子だけはひきずり込みたくなかったのだ。
「誘拐するにも、おれ金がねえや」
 むろん娘にもない……と苦笑すると、娘は、
「あたいお金持ってる。あたい今日インフレやねン」

      五

 京吉はケラケラと笑った。
 いくら持っているか知らないが、どうせ靴を磨いて稼いだ金のたかは知れている。それを、あたい今日インフレやねンという娘の言い方は、昨夜からの京吉の憂鬱を瞬間吹き飛ばして、京吉も噴き出しながら放浪の思いつきがもう一種の快感だった。
 陽子への面あてが咄嗟に放浪を思いつかせる――この衝動的な破れかぶれは、ませてはいても二十三歳という歳のせいか、それとも教養のなさか、身についた野性の浅はかな動きだろうか。いずれにしても、時と場合でぐるぐる変る京吉の心の動きは、昨日まであれほど魅力的だった京都の町々を、途端にいやらしく感じてしまった。
 焼けなかったと思って、威張ってやがらア。なんだ、こんな京都! 京都なんて隠退蔵物資みたいなもンだ。けちけちと食べずに残して置いたおかげで、値が上ったようなもんだ。もとは三文の値打しかなかったんだ。
 逃げ出そうと、京吉は娘の手を握ったが、しかし、足は自然に河原町通りを東へはいったごたごたした横丁の「セントルイス」という喫茶店へ向いたとは、一体どうしたことであろう。
「セントルイス」は京吉の巣であり、一日中入りびたっていることもある。京都をおさらばする前に寄って行こうと思ったのは、やはり京都への未練だろうか。
 しかし「セントルイス」は京都にありながら、京都ではなかった。この店の経営者は蘆屋のマダム連中で、かつては阪神間のブルジョワの有閑夫人を代表していた蘆屋のマダム連中も、洋裁教授の看板を出したり、喫茶店の共同経営を思いついたりしなければならぬくらい、恥も外聞も忘れた苦しい新円生活に追い込まれていたのであろう。
 京都は大阪や蘆屋の妾だといわれていた。しかし、この妾は旦那の大阪や蘆屋が焼けてしまうと、にわかに若がえって、無気力な古障子を張り替え、日本一の美人になってしまった。そして大阪や蘆屋の本妻は亭主の昔の妾を相手に、商売しなければならなくなったのだ。
 背に腹は代えられぬ情なさだが、しかし「セントルイス」は女の経営にしては、万事大まかに穴があいて、ちゃっかりした抜け目のなさが感じられぬのは、さすがに本妻の気品で、他の京都人経営の喫茶店を嗤っているところもあり、
「おれ京都がいやになったよ」
 と、京吉が言いに行くには、ふさわしい店でもあった。
 金文字のはいった扉を押すと、十球の全波受信機がキャッチしたサンフランシスコの放送音楽が、弦楽器の見事なアンサンブルを繊細な一本の曲線に流して、京吉の足は途端に、リズミカルに動き出した。が、
「京ちゃん、今電話掛ったわよ」
「誰から……?」
「陽子さん!」
 ときくと、はっと停った。

      六

「なアんだ」
 陽子から掛って来たのかと、わざと興冷めていたが、さすが甘い胸さわぎはあった。
「京ちゃんのリーベ……? マダム、それともメッチェン……? マイ、ダアーリングね」
 バーテン台の中にいる夏子は、舌を噛みそうな外国語を、ガラガラした声で言って、不器用な手つきで京吉の肩をぶった。そして京吉の連れて来た娘が、白い眼をキッと向けたのも気づかず、いきなりけたたましい笑い声を立てた。
 声も大きいが、身振りも大げさで、何か身につかぬ笑い方だった。藍色の上布を渋く着ているが、頭には真紅の派手なターバンを巻いている――そのチグハグさに似ていた。
 しかし、夏子はこのターバンを思い切って巻くようになってから、急にうきうきした気分になったのだ。そんな自分が不思議でならなかった。
 夏子の夫は歯科医で、大阪の戎橋附近の小さなビルの一室を診療所に借りて、毎日蘆屋から通っていた。夏子は歯科医などを莫迦にして嫁いだのだが、歯科医のボロさは夏子を蘆屋のプチブルの有閑マダムの仲間へ入れてくれた。
 しかし、夏子はもともと引っ込み思案で、応召した夫が戦死したのちも、六つになる男の子と昔かたぎの姑と、出戻りの小姑と一緒に暮すつつましい未亡人ぶりが似合う女であった。ガラガラしたしわがれた声や、人一倍大きく突き出した鼻も、案外彼女のさびしい貞淑さを裏切っていなかった。
 代診を雇ってやらせていた医院が、買い溜めの高価な薬品や機械や材料といっしょに空襲で焼けてしまったり、預金が封鎖されたりして、到頭友達と共同で喫茶店をひらくようになってからも、陰気に蘆屋の家に閉じこもって夫のことを考えている日が多かった。
 ところが、セントルイスへ時々やって来て、旦那を待ち合わせている先斗町の千代若という芸者が、焼け出されるまでは大阪の南地にいたというので、いろいろ大阪の戎橋附近の話をしているうちに、ああ、あの歯医者はんなら知ってますどころか、あての旦那はんどしたンや。
 えっと驚いてなおきくと、夫は千代若だけではなく、何人もの芸者や女給と関係があったという。千代若は簡単に捨てられたらしい。
「箒で有名どしたえ。ほんまに、こんなええ奥さんがいたはったのに……」
 夏子がもとの旦那の本妻だったと判ると、もう夏子の分までふんがいしている千代若の言葉をききながら、夏子は真青になっていたが、しかし、ターバンを巻くようになったのは、それから間もなくのことだ。
 千代若とも変な工合に親しくなり、蘆屋に帰る日もすくなく、急に笑い上戸になった……。
 京吉は笑い声の高い女がきらいだった。顔をしかめて、
「いつ掛ったんだい」
「気になるの。おほほ……。今より約五分前!」
 夏子は情報放送の真似をして、
「――でも、少ししてまた掛けるから、京ちゃん来たら、待って貰ってくれと必死の声で、言ってたわよ」

      七

「へえーん」
 京吉は小莫迦にしたような声を出していたが、やはり、陽子何の用事だろうと、胸はさわいでいた。
 京吉は陽子の身の上は何にも知らなかった。どこに住んでいるのかも知らなかった。陽子も京吉が田村に居候していることは知らなかった。十番館で一寸口を利くだけのつきあいでしかなかった。
 だから、セントルイスへ掛ければ、京吉がつかまると、陽子が知っていることすら、すでに京吉には不思議だった。むろん、これまで電話なぞ掛って来たためしはなかった。
 それだけに、意外なよろこびだと、胸が温まりかけたが、しかし、それでやに下るのはだらしがないと、京吉はピシャリと水を掛けた。
「昨日の今日じゃねえか。感じ悪いよ」
 夢がこわれたのだ。誰かと踊る時、いつもあごをぐっと引いて、心もち下唇を突き出しながら口を閉じている陽子の癖や、ほんのりと桜色に透けて見える肉の薄い耳から、生え下りへ掛けての、男を知らぬやるせない曲線の弱々しさを、三十男の感覚で思い出すと、なまなましい嫉妬が改めて甦った。
「おれ帰るよ」
「あら、電話きかないの……?」
「おれポン引じゃねえよ」
「ポン引って、何のことなの。やっぱしピンボケみたいなもの……?」
 夏子は「カマトト」ではなかったのだ。千代若と一緒に、キャッキャッと遊びまわったりすることが、何となく浮々と面白くて、にわかに不良マダムめいていたが、夏子はやはりうぶだった。スリルは感じても、体をよごすのは怖く、何にも知らなかった。見かけ倒しの不良マダムだった。共同経営者の他の二人が、抑留者の引揚げ促進運動のデモに参加することと、店へ来る客と大津へ泊りに行くことを、ちゃんと使い分けているのを、びっくりしたような眼でながめていたのだ。
「ピンボケ……? あはは……。朝帰りの女の電話を待つのは、ピンボケかポン引ぐらいなもんだ。おれ趣味じゃねえよ」
「あら、あら。本当に帰るの……?」
「電話掛ったら、おれもう京都にいねえよと、言っといてくれ」
「本当、それ。あたしあんたにリベラルクラブへはいって貰おうと思ってたのよ。知ってるでしょう、リベラルクラブ。同伴者がなければ入会できないのよ。アベック、素敵じゃないの。おほほ……」
 場ちがいのけたたましい笑いだった。
「アベックか。ふん」
 鼻の先で笑って、
「アベックは旅に限るよ。旅は道連れ、一夜は情けか」
 京吉は軽薄に言って、さア行こうと娘の手を取ると、
「――見よ、東海の朝帰り!」
 口ずさみながら、出て行った。


    東京へ

      一

 隣の部屋の話声で眼がさめた。枕元の時計を見ると、もう十時であった。
 しかし、章三にとってはまだ[#「まだ」に傍点]十時だ。
 章三はいつもは四時間ぐらいしか眠らぬ男だが、日曜日だけは夕方近くまでぐっすり眠ることにしている。寝だめをして置くのだ。田村という所は丁度それに都合よく出来ている。だいいち、貴子という女の体には、一種ふしぎな体温と体臭があり、エーテルのように章三を眠らせる作用を持っているのだ。ぐっすり眠ってしまう。忙しい章三にとっては、土曜日以外に会ってはならない女であり、日曜日の寝だめには重宝な女である。
 だから十時に眼がさめたのは、めずらしい方なのだ。しかし、眠りをさまたげたのは、隣の部屋の話声ではない。とすれば、一体何であろ
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