今はどうサバを読もうと思っても、四十以下には言えぬくらい老けてしまったが、若い頃はこれでも自分に迷って先祖の仏壇を売った男もいるくらい、鳴らしたものだ、四条の橋の上に張店みたいに並んだ何とかガールのお前のような女とは、ものが違うのだ――というお春の言葉は、陽子の耳をあかくさせたが、チマ子は負けずに言いかえした。
「あんたが仏壇お春やったら、うちは兵児帯おチマや。兵児帯おチマは喧嘩は売っても、体は売れへん。――年をきいたら笑って十七、可愛いあの子は兵児帯おチマ、喧嘩は売っても、体は売らぬ――とセンターでフライが唄うてるのを、あんた知らんのンか」
 三条河原町から四条、京極へかけて、京都の中心(センター)で、天プラ(フライ)の不良学生たちが唄っている唄を、チマ子は口ずさんだが、急にあーあと、自嘲めいた声になると、
「――ほんまに、うちのような娘を持った親はえらい災難や」
 その言い方にみんな笑った。お春も笑いながら、よれよれの背中を向けて、横になったが、留置場の床の痛さに骨ばった自分の体を感じた途端、お春はふと母親を想った。母親はもう七十、あと三年ももつまいが、しかし、自分の体が稼げなくなる時は、それよりも早く来るのではなかろうか。
 女が女である限り、どんなに醜くても、汚くても、たとえ五十を過ぎても、男相手に稼いで行ける――というお春の自信も、病気のまわった体を思えば、にわかに心細い。
「みんな、わてみたいになるンどっせ。しまいには、骨だけしか売るもンがない」
 あーあとお春も奇妙な溜息をついたが、もうだれも笑わず、何かしーんと黙って、うなだれてしまった。
 チマ子はしかしキラッと眼を光らせて、いきなり陽子の耳に口を寄せて来た。
「姉ちゃん、うちの頼み、きいてくれはる……?」

      八

「きいてあげてもいいわ」
 陽子は、チマ子のささやきを耳になつかしく感じながら微笑した。
「兵児帯のおチマ」と名乗る不良少女などにふと、男心めいたなつかしさを抱くとは、留置場にいれば人恋しくなるせいだろうか。
 いや、不良少女らしく見えないという点にむしろ陽子の興味は傾いたのだ。一つには、チマ子が盗んだのが写真機だという点にも、ひそかな好奇心はあった。
「ほんまに、きいてくれはる……?」
「ええ、どんなこと……?」
「うちが写真機盗んだ人の所へ行って来てほしいねン」
「えっ……?」
「ねえ、行ってくれはる……?」
 甘えるように、体をすりつけて来た。
「でも、ここを逃げ出して行くわけにいかないわ」
「しかし、姉ちゃんは本当のブラックガールと違うさかい、明日になったら、すぐ出して貰えるわ。うちは泥棒したさかい、あかんけど、姉ちゃんは鳩やわ」
 飛んで出るから鳩だというチマ子の声の明るさに、陽子もほっと心に灯がともって、
「じゃ、ここを出たら、あんたの使をしてくれというわけね」
「モチ、コース……」
 モチは勿論のモチ、コースはオヴ・コース(勿論)のコース。綴り合せて、モチの論よという意味らしい。
「――うち、刑事にきかれても、あの写真機盗んだと白状せんつもりや。預かった品やと言うて頑張るつもりやねン」
「そんな嘘すぐはげるでしょう」
 陽子が呆れると、チマ子はじれったそうに、
「――そやさかい、行ってくれと頼んでるんやないの。その人の所へ行って、あの写真機はうちに預けた品やということにしてくれと、姉ちゃんから説き伏せてくれたらそれでええやないの」
「ふーん。でも、その人うんと言ってくれるかな」
「ええおっちゃんやさかい、うちを助けてくれはるやろ。一寸こわい所あるけど、親切な人やさかい。うち、今でも、あの人の写真機盗んだこと後悔してるねン」
「どこにいる人……?」
「行ってくれはる……?」
「それより、どこにいる人なの、それを先に……」
 言ってごらんと、一寸せきこむと、チマ子は場所をまず言って、
「木崎さんという人……」
「木崎……?」
 ルミから貰った名刺の「木崎三郎」の明朝《みんちょう》の活字が、ぱっと陽子の頭に閃いた。
「ねえ、行ってくれはる……?」
「行くわ。で、その写真機は……?」
「サツ(警察)で夜明ししてる! 売れば一万五千円の新円のサツやけどな」
 チマ子は吐き捨てるように言った。


    兄ちゃん

      一

 頽廃の一夜が明けて、日曜日の朝が来た。
 ただでさえ頽廃の町である。ことに土曜日の京都は、沼の底に妖しく光る夜光虫の青白い光のような夜が、悪の華の巷にひらいて、数々のいまわしい出来事が、頽廃のメシベから放つ毒々しい花粉の色に染まる――というこの形容は誇張であろうか。
 例えば、われわれが知る限りでも、昨夜、つまり土曜日の夜……。
 キャバレエ十番館のホールの階段に立った木崎のライカが狙う「ホール風景」の夜のポーズのシャッターが切られた途端に、倒れたダンサー茉莉!
 青酸加里! 京吉!
 東山のアパート清閑荘では、ヒロポン中毒のアコーディオン弾き坂野の細君が逃げ、闇の女を装う兵児帯のチマ子が木崎のライカを奪って逃げた。
 そのチマ子の母親が経営している田村では、好色の侯爵乗竹春隆を訪れたダンサーの陽子が貴子のパトロンの木文字章三を廊下で見た途端に、はだしで田村を飛び出し、闇の女と間違えられて留置されると、たまたまチマ子も同じ留置場にはいっていて、仏壇お春、病毒……。
 そして、さまざまな女が、いかにも女の都の京都らしく、あるいは一夜妻の、そして土曜夫人として週末の一夜を明かすと、日曜日の朝の河原町通りは、昨夜の男が子供にせがまれていそいそと玩具のジープを買うのだ。その幸福な顔!
 だから、土曜日の夜の二人連れを見るよりも、日曜日の朝の親子連れを見る方が、ふっと羨しい。ことに京吉のような男には……。
 朝といっても、もう午ちかい。茉莉のアパートを出た京吉は、わびしい顔で河原町の雑閙の中を歩いていた。
 京吉には両親の記憶はない。兄弟も身寄りもなく、祖母の手に育てられたが、中学校三年生の時にたった一人の肉親のその祖母もなくなり、天涯孤独となった身は放浪生活に馴染み易く、どこへ勤めても尻が落ちつかず、いまだにきまった職がなかった。
 しかし、十六の歳に十も年上の未亡人に女というのを知らされてから今日まで、彼の美貌と孤独な境遇と無慾な性格に慕い寄る女たちの間を、転々と移っている間に、もう自分はどんなことがあっても、この顔さえあれば女は食わせてくれるという自信がついた。
 いわば一見幸福な男だが、しかし、このわびしさは何であろう。
 日曜日の朝の親子連れの姿を見て、ふっと自分の孤独を知らされたからだろうか、それとも……。
 転々と女から女へ移った――というより、移されて来たが、恋は知らなかった。誰からも好かれたが、誰をも好かなかった。そのさびしさだろうか。しかし、そのさびしさの底には、昨夜到頭お通夜に来なかった陽子のことがなかったとは、いいきれまい。
 うかぬ顔をして、三条河原町の朝日ビルの前まで来ると、京吉はいきなり、
「兄ちゃん」
 と、声を掛けられた。

      二

 兄ちゃんと呼ばれて、京吉はびっくりした。自分を兄ちゃんと呼ぶのは、田村のママの娘のチマ子よりほかにはいない筈だが、ちかしチマ子は十日前に家出したきり、行方不明であった。チマ子の父親は大阪の拘置所にいるゆえ、面会や差入れに大阪へ行っているのかも知れないと、京吉は考えていた。
 もっとも、昨日、四条通りでチマ子の姿を見かけたいう男もいる。してみれば、やはり京都へ帰って来ているのかと、京吉はひょいと声のする方を見たがチマ子ではなかった。
 朝日ビルの前に、靴磨きの道具を出して、うずくまっている十二三の少女が、なつかしそうに京吉を見上げているのだった。
 あ、そうだ、ここにも一人自分を兄ちゃんと呼ぶ娘がいたっけ――と、京吉は思い出して、寄って行った。
「なんだ、お前か」
 お洒落の京吉は、いつもその娘に靴を磨かせていたのだが、この半月ほどはその場所に姿を見せなかったので、ふしぎに思っていた。
「うん。あたいや。兄ちゃん、あたいまた戻って来ちゃったの。あたいのことよう覚えてくれたはったなア」
 娘はうれしそうだった。アクセントは東京弁だが、大阪と京都の訛りがごっちゃにまじって、根無し草のようなこの娘の放浪を、語っているようだった。
「どうしてたんだ……?」
 と、靴を出すと、いそいそとブラシを使いながら、
「あげられちゃったの」
「悪いことしたのか」
「ううん。浮浪者狩りにひっ掛ったのよ。寝屋川のお寺に入れられてたんえ」
「逃げて来たのか」
「うん」
 クリームを塗っていた手をとめて、顔を上げると、ニイッと笑った。
「――やっぱし、靴磨きの方がいいわ」
 笑うと、奇麗な歯並びが印象的に白かった。一寸すが眼気味の眼元がぱっちりとして、薄汚れているが思わず見とれたくなる可愛さは前とかわらなかった。が、半月見ぬ間にすっかり痩せおとろえている。
 そのことを言うと、
「風呂は入れてくれるけンど、お腹ペコペコやさかい、風呂の中で眼がまわりそうになっちゃった。あんなとこにいてられへん」
 寺院で経営している収容所には、放浪性に富んだこの娘をひきとめる魅力は何一つなかったが、その埋め合せといわんばかしに、我慢しきれぬいやなことが随分多かったらしい。
「――センターがなつかしかったえ」
「野宿しても腹一杯食べた方がましか」
「うん。それに、収容所にいたら、兄ちゃんに会われへんさかい……」
「えっ……?」
「あたい、兄ちゃんに会いたかったえ」

      三

「おれに……? どうして……」
 会いたかったんだい――と思わずきくと、
「好きやもん。あたい、兄ちゃん好きえ」
 靴磨きの少女は、磨きもせず、熱っぽい眼でじっと京吉の顔を見つめながら、甘えるように言った。
 京吉はキョトンとした表情になった。
 時に三十男に見える京吉の苦味走った顔は、キョトンとすると、急に十二三の少年――いや少女のように可憐で無邪気な表情になる。びっくりした時の癖だった。
 いや、びっくりしたというより、むしろ不思議でたまらぬという気持だった。動く玩具を見た時の赤ん坊の驚きにも似ていた。鏡の前へ連れて行かれた犬のように、何か虚ろだが、新鮮な驚きだった。
「一体これは何の意味だろう。なぜこうなるんだろう」
 と、自分の心に、――というより自然に向って問いながら、首をかしげている謙虚な裸の状態だった。よれよれの五十銭札みたいに使い古された陳腐な言葉の助けを借りて、何もかも既知の事実にしてしまうという観念の衣裳をまとわぬナイーヴな子供の感受性を、京吉は馴々しく図太い神経の中に持っているのだ。
 例えば、祖母が死んだ時がそうだった。昨夜茉莉が倒れた時も、キョトンとしていた。
 そして今も……、十二の娘にあるまじい熱っぽい眼が、何か不可解で仕方がなかったのだ。しかも、それがなぜか得体の知れぬ不思議な魅力であった。
「兄ちゃん、右の足とかえて!」
 キョトンとしていた京吉は、娘に言われて、あわてて右足を出した。いつも左の足から磨かせているのは、ダンスの習慣で左足を先に出しているからであろう。
「ああ、もうそれでいい」
 いつもより念入りに磨いている娘の、鼻の上の汗を見ると、可哀相になって、金を払おうとすると、
「お金いらないわ。お兄ちゃんはただにしとく」
 ハアハア息を弾ませながら、娘は言った。
「ホールじゃあるめえし、――いや、ホールでももうただで踊るのは、おれこりたよ」
 払うよと、あちこちポケットを探ったが、財布の手ごたえがない。
「なんだ、掏られてやがらア」
 苦笑したが、べつに悲しそうな顔も見せず、
「――明日まとめて払うから、貸しといてくれ。済まん、済まん。じゃ、また……」
 歩き出して、三条通りを横切ろうとしたが、ジープが来たので、足を停めて待っていると、
「兄ちゃん!」
 娘が追いついて来て、腕にすがりついた。
「――あたいも一緒に行く!」
「…………」
 
前へ 次へ
全23ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング