の顔だった。
「…………」
 京吉も半泣きの顔だった。――女ってみなばかだ。茉莉は死ぬし、陽子は誘惑されるし、この女は間男して亭主の所を逃げ出す……。おまけに、何も知らずに電話を掛けやがる。おやッ、姙娠してけつかる。おシンの奴もでかい腹だったっけ!
「兄ちゃん、早う……」
 行かないと見失うわよと、カラ子はそんな京吉に、気が気でない声をあげた。あ、そうだと、京吉はセントルイスを飛び出した。カラ子もついて飛び出して来て、
「あっちよ」
 と、河原町通りの方へ歩いて行くスリを指した時、芳子がバタバタと出て来た。そして血相をかえて、木屋町の方へ小走りに行こうとする――のを、京吉は、
「どこへ行くんだ……?」
 と、とめた。
「余計なお世話よ。どこへ行こうと……」
 あたしの勝手よ――と、いわんばかしに突っぱなしたそのいい方には、祇園荘へいるとにらんだ銀ちゃんに会いに行こうとする女の思いつめた激しさが読み取れた。
「おい、ちょっと待った」
「はなしてよ!」
「いや、はなさねえ」
「やぶけるわよ!」
「ねえ、待ってくれよ。祇園荘に行くんだろう……? ねえ、おれ頼むよ。行くのかんべんしてくれよ。ねえ、芳ッちゃん!」
「芳ッちゃん、芳ッちゃんって、お安くいわないでよ」
 と、いわれながら、京吉はしかし、ねえ、たのむよ、と、だんだん甘えるような哀願的な声になっていた。
 そして芳子をひきとめながら、ひょいと振り向くと、もうスリは河原町通りへ姿を消していた。同時にカラ子の姿も見えなくなっていた。

      五

 四条河原町の三味線屋の飾窓の中に、委託品として陳列されているスリービーのマドロスパイプを吸口の所だけ照らしていた落日の最後のあかりも、市電を待っているうちにいつか消えてしまい、黄昏がするすると落ちて来た。古い都のうらさびた寂けさよりも、銀座風に植民地じみた雑然とした色彩の洪水の方がむしろ最近の特徴になっているこの界隈も、灰色の秋風が肌寒く走ると、さすがに古い京都らしいくすんだ黄昏《たそが》れ方であった。町も人もうらぶれたように風に吹かれて、都会の憂愁がほつれ毛のようにふるえていた。
 三味線屋の飾窓の前に立って、電車を待っているスリも、何かしらうらぶれていた。スリも人並みにうらぶれるのか。いや、その男はスリが本職ではなかった。本職のスリなら、電車を待つ行列の中にまぎれ込んでいるはずだ。ひとりぽつりと行列からはなれて、手巻きの、三分の一以上葉が抜けたような煙草を吸ったりしないはずだ。
 その男――北山正雄は大阪のある銀行の下級行員であった。商業学校の夜間部を出ると、出納係に雇われたが、間もなく応召し、五年の後復員して来たが、その五年の歳月はこの実直な青年の実直さを、すこしも変えていなかった。ボソボソとした小さな声も、応召前と同じで、ソロバンをはじく手にも五年間の異常な経験のしみはついていないようだった。けろりとした手だった。
 しかし、ただ一つ帰ってから闇の女を買うことを覚えた。
 ある夜、大阪の中之島公園で拾った娘に、北山は恋心めいた情熱を感じた。ところが、無理をして二三度会うているうちに、右の眼の下にアザのあるその娘はふいに中之島公園に現われなくなった。大阪駅前の闇の女の群の中にも見当らなかった。難波や心斎橋附近の夜の場所も空しく探したあげく、検挙されたのだろうか。病気だろうかと心配していると、ある日その娘から手紙が来て、
 ――大阪は何かときびしくなったので、京都へ来て働いている。こんどの日曜日、三時半に四条河原町の横町のセントルイスという店で待っているから来てくれ――という。
 飛び立つ思いとはこのことだと北山は日曜日が来ると、朝のうちにもう京都へついた。そして駅前で靴磨きに生れてはじめて靴を磨かせた。ところが、磨き終って金を払おうとするとズボンの尻のポケットに入れて置いた財布を掏られていることに気がついた。金がなくてはもう娘にも会えない。魂が抜けたようになって河原町通りを歩いていると、朝日ビルの前で靴を磨かせている若い男のズボンの尻から財布がはみ出していた。急に魔がさした。はっと思った途端、北山の手は伸びていた……。
「ああ、ああ!」
 その時のことを、北山はなまなましく想い出して、溜息とも叫びともつかぬ、得体の知れぬ声をうめきながら、ぶるんと首を振っていると、電車が来た。北山はそわそわと、しかし、何か心を残しながら、その電車に乗った。すると、そのうしろから、十二三の娘が急いで乗って来た。いうまでもなく、カラ子であった。

      六

 電車が動き出すまで、少し間があった。その間、北山もカラ子もそれぞれ河原町通りの舗道を、窓ごしにキョロキョロ見ていた。カラ子は京吉が来るのを、待っていたのだ。
 せっかく祇園荘からセントルイスまで尾行して、電話で兄ちゃんを呼び出したのに、兄ちゃんはよその女の人にばっかし気を取られていたので、カラ子は結局機転を利かしてひとりで尾行して来たのだったが、さすがに嫉妬じみた気持に、カラ子は唇を噛んでいた。
 しかし、そのために京吉を恨もうという気もなかったのは、恋心の幼なさのゆえではない。ひとから優しくされることは、何となく諦めているこの少女の哀しいならわしだった。それゆえか、カラ子はひとから優しくされたいと願う前に、まず自分の方から献身して媚びて行こうとした。しぜん、ひとから頼まれごとをするのが好きだった。いや、頼まれぬことも進んでやりたがった。しかし、報酬はあてにせず、いわば孤児の感情のさびしさがさせる無償の献身であった。十二の小娘にしては、荷の重すぎるスリの尾行という仕事も、だからカラ子を、いそいそと弾ませていた。そして、それを立派にやりとげることが、京吉への恋心めいた気持の、せめてもの表現であった。
 電車が動き出した。カラ子はふと兄ちゃんとこのまま別れてしまって、もう二度と会えないのではないかという予感にさびしく揺れたが、眼はピカピカ光り、北山をにらんでいた。北山は未練たらしく、いつまでも河原町通りの方へ、視線を泳がせていた。あの娘を探していたのだ。その女のことがあるから、京吉の財布を掏ったのだった。さきに自分が掏られたことへの腹いせでもあり、魔がさしたともいえるが、しかし、その闇の娘を買う金という目的がなかったら、実直で小心な北山には、ひとを掏るなどという大それたことは出来なかったはずだ。掏ると、すぐ人ごみの中へ姿を消した。約束の三時半にはまだ間があった。行きあたりばったりに歩いていると、悔恨と恐怖が追うて来て、ジリジリと背中を焼いた。歩いていることが怖くなり、北山は祇園荘へ飛び込んだ。マージャンは戦地でならったことがある。マージャンで時間をつぶして、セントルイスへ行った。が、その娘はいつまで待っても来なかった。その娘が昨夜、仏壇お春たちと一緒に検挙されたとは、むろん北山は知らなかったのだ。
 いらいらと待っていると、いきなり、
「おれはこんな所でボヤボヤしていてもいいのやろか」
 という焦躁が、蛇のように頭をもたげて、北山の右の手首へからみついた。スリ、悪事、手繩! 気の小さい男だった。北山はソワソワとセントルイスを飛び出し、京都駅行きの電車に乗ったのだった。
 そして、女への未練と、一刻も早く京都を逃げ出したい気持を、二本の電車線路のように感じているうちに、電車は駅前についた。
 駅前の広場を横切る北山の足は速かった。カラ子はハアハア息をはずませて、チョコチョコついて行った。

      七

 改札口をはいって階段を登ると、狭い通路を繩で仕切った中に、旅行者の群が陰欝な表情を無気力にうかべて、しょぼんとうずくまっていた。誰も立っている者はなかった。
 引揚者だろうか。それとも、汽車がはいるまで、その薄汚い通路で鈍い電燈のあかりを浴びながら、何時間も待たされているただの旅行者だろうか。ひとりひとりは独立の人格を持った人間だが、こうして群をつくっていると、もうそこから漂って来るのは、意志を失った一つの動物的な感覚のようであった。
 人々は彼等の傍を通り抜けながら、ふと優越的な気持が同情に先立つらしく、さげすみの眼をちらと投げて行ったが、北山の眼はそんな旅行者が羨ましい眼付だった。
 何もかも投げ出して、旅行者の中へもぐり込み、どこか見知らぬ土地へ行ってしまいたかった。うずくまっている旅行者の一人と、ふと視線が合った。何だか見覚えのある顔だった。
「…………」
 北山は半泣きの顔に弱々しい微笑をうかべて、何か言いかけようとしたが、その時駅員が前方からやって来た。北山ははっとして顔をそむけると、固い歩き方で通路を抜け、省線のプラットの方へ階段を降りて行った。駅員の服装が警官のそれに見えたのだった。
 女に会うという期待の下へ消していた「おれはスリを働いた」という悔恨の火が、会えずに帰る北山の背中に執拗に迫り、それを振り切って逃げようと焦る行手には、恐怖が怪獣のように立ちはだかり、ペロペロと法律の赤い舌を出しているのだった。
 大阪行きの省線はすぐ来た。高槻で座席があいたので、ぐったりとして坐り、向い側の座席にちょこんと坐っているカラ子を見た途端、
「おやっ!」
 北山ははじめて、カラ子が祇園荘からずっと自分について来ているらしい――と、気がついた。
 吹田を過ぎ、東淀川の駅を過ぎると、やがて南側の車窓に、北野劇場のネオンサインが見え、大阪はもう夜であった。大阪駅前の広場に、闇の娘たちが夕顔の蔓に咲いた夜の花のように、ひっそりとした姿を現わす時刻だ。
 北山は眼の下にアザのある娘がその中にいないだろうかと、空しく探す眼付になりながら、うしろからつけて来るらしいカラ子のことは瞬間忘れていた。
「いない」
 しかし、もしかしたら中之島公園にいるかも知れないという藁のようなはかない希望は、北山の足を中之島公園へ連れて行った。
 北山は公園の中をぐるぐると歩きまわった。白粉をどんなに濃く塗ってもかくし切れないアザは、どの娘の眼の下にも見当らなかった。
 ぐるぐると歩きながら、北山は孤独な自分の足音をきいていた。気の遠くなるようなさびしさに足をすくわれて、北山は急に立ち停った。そして振り向いた。カラ子が立っていた。
「なぜおれをつけるんだ……?」
 北山は自分でも不思議なくらい荒々しい力で、いきなりカラ子の肩を掴んだ。その時、パーン、パーンと銃声が聴えた。

      八

「花火だな」
 と、北山はその銃声を遠い想いで聴いた。中之島公園は真中を淀川が流れ、花火を連想させる。げんに二月ほど前、この公園で水都祭が催され、お祭り好きがお祭り騒ぎの花火を揚げたのだった。だから、銃声とは聴かなかった。
「お、お、お前、京都から、お、お、おれをつけて来たんだろう」
 なぜつけた――と、北山は昂奮に吃りながら、狂暴な力でカラ子の肩を掴んでいた。
「…………」
 カラ子は咄嗟に返事が出来なかった。空襲以来こわい目には随分会うて来たし、こわい人間にも会うて来たが、しかし、北山の表情ほどこわいものを見るのは、生れてはじめてだった。声も出ず、カラ子はぶるぶるふるえていた。
「言ってみろ!」
 北山は血走った眼で睨みつけながら、カラ子の肩をゆすぶった。ゆすぶられて、カラ子はふっと空を見た。降るような星空に、星が流れ、あえかな尾を引いてすっと消えた拍子に、カラ子は京吉を想い出した。
「兄ちゃん、あたい、こんなこわい眼に会うてるのよ」
 何も中之島公園までつけて来なくても、途中交番の前を通った時、かけ込んで、あいつスリだと一言いえば、京吉の財布は戻った筈だった。が、交番というものには、やはり浮浪孤児らしい反撥があった。今日の昼間、円山公園の交番でもいやな想いをさせられたのだ。
 それと、一つには、警官のたすけを借りずに、京吉へスリを渡したいという子供らしい虚栄心もあった。スリの落ちつく場所を見届けて、それを京吉に知らせる時の喜びが、カラ子をいつまでも尾行させていたのだろう。
「言え! 言わんのか! 
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