内証だぜ……と、囁きかけたが、急にふっと気が変った。京吉という男は、ひとは善さそうだが、それだけに口は軽そうだ。だから、京吉の口から坂野の細君とのことがばれるおそれがある――と、銀ちゃんは呼びとめて、口止めしようと思ったのだが、京吉の顔を見ると、何だか京吉に対して恥しいような気がして、もう言えなかったのだ。いや、京吉によりも自分に恥しかったのだ。あわてふためいた口止めは、男らしくもないと思ったのだ。おまけに、それではあんまり坂野が可哀相だ。もっとも、一切合財坂野に打明けるのも、坂野には酷だと思った。が、「知らぬは亭主」の坂野のいる前で、こっそり口止めは、坂野を侮辱しているようなものだ。京吉に知られてしまったのは罰が当ったようなものだから、
「喋るなら喋れ」
と、成行きに任せるのが、自分としても気が楽だと、銀ちゃんはせめてこの点で捨身の裸になっていたかった。
「さっきの……?」
と、京吉はききかえした。
「いや、さっきの二千点の金、いつ払うんだ」
と、銀ちゃんはむりにそこへ話を変えた。
なアんだ、それで呼びとめたのかと、京吉は軽蔑したような口つきになって、
「ちゃっかりしてるね。払うよ。セントルイスへ行きゃア、はいるんだ。今日中に払うよ。銀ちゃん、そんなんかね。おれ見直すよ。感じ悪いや。払やいいんだろう」
プイと怒って、出てしまった。銀ちゃんは憂欝な顔で卓子へ戻って来た。
「銀ちゃん、どうした。女に振られたんじゃないですか。元気溌剌じゃないですな」
坂野はうかぬ顔でパイを撫ぜていた。
「そういうおたくも、からきし元気溌剌じゃないね」
「あッしですか。」
坂野は苦笑して、
「――女房逃げちゃったンでさア」
「へえン」
「だから、ショボショボしょげてるッてんじゃねえですがね。人間あんまり腹が立つと、目まいがしていけねえ。くらくらッとね」
「大事にしてくれよ」
「女房をですかい」
「いえさ、体を。ヒロポン打ちすぎるンじゃないか」
「大丈夫でさア。漫才のワカナは一日六十本打ってもピンピン生きてまさア。それより、銀ちゃん、アルプはいけませんぜ。あれ航空燃料だといいますぜ、しまいにゃ、アップアップ、てっきりでさアね」
「うん。てっきりだね」
銀ちゃんはそっと坂野の顔色をうかがったが、急に、
「――おい、場をきめよう! どうせ短い命だ!」
喧嘩腰のような声になった。
暮色
一
東京や大阪のバラック建ての喫茶店は、だいいち椅子そのものがゴツゴツと尻に痛く、ゆっくり腰を落ちつけて雰囲気をたのしむという風には出来ていないが、さすがに京都の喫茶店は土地柄からいっても悠長だ。
例えば、セントルイスには半日坐り込んでいる常連がいる。三条河原町のD堂という古本屋の主人など、自分の店に坐っている時間よりも、セントルイスの片隅に坐っている時間の方が多いのだ。
この主人の人生の目的は享楽にある。しかし、多くの金を要する享楽は、彼にとっては不愉快そのものだ。出来るだけすくない金で、出来るだけ効果的に楽しむことが、彼にとっては、真の享楽なのだ。彼はこの主義にもとづいて、毎日セントルイスでねばる。なぜなら、この店は場所柄先斗町あたりの芸者の常連が多く、それを見ていることが、彼にとっては目の正月であり、顔見知りの芸者を相手にいやがらせを言っておれば、お茶屋散財しているような気がするからである。むろん、芸者たちはいやな顔をする。が、どうせ金を使って散財しても、もてないことを知っているから、苦にはならない。色男を気取らず、見栄も張らず、けちで通った五十男らしいいやがらせを言っているのが、むしろサバサバしたたのしみであり、一杯十円の珈琲の高さが安くなるこの享楽にまさる享楽がほかにあろうか。京都人であった。
セントルイスはめったに満員にならない。だからといってさびれているというわけではないのだ。京都では満員になる喫茶店なぞ殆んどないのである。しかし、たまにセントルイスが満員になることがあっても、彼は席を譲ろうとしない。泰然と落着きはらっている。チェーホフの芝居に出て来る下宿代を払わない老人のように、澄ましこんでいる。
「商談、お待ち合わせにお利用下さい」
という女文字の貼紙の下で、あたかも誰かを待ち合わせているかの如き顔をしているのだが、むろん誰を待ち合わせているのでもない。
しかし、D堂の主人を除けば、その時セントルイスにいたひと達は、まるで申し合わせたように、誰かを待っていた。
マダムの夏子さえも、待っていた。京吉を待っていた。
先斗町の千代若も旦那を待っていた。喫茶店で待ち合わせる旦那は、むろん上旦那ではなかったが、しかし、イロと旦那を兼ねた所謂イロ旦(那)はただの旦那、ただのイロよりもいいにはきまっている。だから、D堂の主人にからかわれながら、いつまでも待っていた。
カラ子が祇園荘から尾行して来たスリも、誰かを待っているのか、いらいらしていた。
そのカラ子は勿論京吉を待ちこがれていた。早く来てくれぬと、スリが出てしまう。カラ子は何度も表へ出て、京吉の来そうな方へ遠い視線を送っていた。が、来ない。
「遅いなア。どないしたンやろか」
再びセントルイスへ戻って来たカラ子の心配そうな声をきいた時、一人の若い女がふっと顔を上げた。坂野の細君の芳子であった。
「遅い。本当に遅い。銀ちゃんどうしたんだろう」
と、芳子はつり込まれたように、にわかに不安になって来た。
二
三時に行くと銀ちゃんは言っていたが、もう四時をすぎている。狭い横町にあるだけに、セントルイスの店なかは、ただでさえ早い秋の暮色が、はやひっそりと、しかし何かあわただしく忍び込んでいた。
もしかしたら銀ちゃんは来ないのではないかという心配が、その暮色のように迫り、芳子は、昨夜銀ちゃんのアパートへ転がり込んで行った時の、銀ちゃんの迷惑そうな顔を改めて想い出した。
「あたしが来ては、迷惑なんでしょう……?」
「迷惑じゃないが、困るよ」
「あたしがきらいなんでしょう……?」
「きらいじゃないが、ここにいちゃまずいよ」
「それごらんなさい。きらいなんでしょう」
「…………」
坂野の手前困るんだ――という銀ちゃんの気持は、芳子には判らない。
女というものは、こういう場合、相手が自分を好いているか、きらっているか――という二つのことしか考えず、それ以上のことは考えようとしない。すくなくとも、そんな顔をしている。三時セントルイスで会おうという口実でアパートを追い出されたのは、相手が自分をきらっているせいだ、――という風にひたすら思い込んでしまうのだ。
その証拠に、三時の約束が四時をすぎても来ないではないかと、芳子はもう捨てられた女の顔であった。
もっとも、はじめは銀ちゃんが好きでも何でもなかった。好きで結びついた関係ではない。アルプ・ウイスキーの魔がさした。――というより、酔ったゲップを吐き出すような、まるで冗談まぎれのような結びつきであった。出来心という言葉さえ、大袈裟であろう。ところが、そんな冗談から、もう銀ちゃんが忘れられなくなるという駒が出たのだから、肉体のつながりの不思議さは、われわれの考える以上だ。
乗り掛った不義の駒を、動かせるのはいつも女の方だ。だから、芳子はわざとヒロポンにかこつけて、アンプルを割るという芝居までして、銀ちゃんのふところへ転がり込んで来たのだが、しかし、一つにはお腹の子供のこともあった。坂野にもそれと感づかれそうになっていたのだ。
そのお腹の子のことがあるから、きらわれても、とにかくもう一度銀ちゃんに会わねばならない。が、銀ちゃんはどこにいるのだろう。アパートへ電話してみたが、むろんいなかった。半泣きの顔で、ふっと入口の方を見た途端、芳子ははっとした。京吉がはいって来たのだ。悪いところを見つけられたように、芳子はあわてて顔をそむけた。
が、京吉はむろん芳子に気がついた。
「ははアん」
セントルイスから祇園荘へ電話が掛った時の、銀ちゃんの狼狽ぶりが想い出された。京吉はわざと芳子には顔を向けて、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、くわえた煙草を、舌の先でペッと吐き捨てると、
「ひでえキャッキャッだ!」
そのキャッキャッという言葉をきくと、芳子は何思ったか、急に起ち上って、京吉の傍へ来た。
三
「京ちゃん、あんた……」
芳子はちょっと言いにくそうに、
「――元橋さんの居所知らない……?」
「元橋さん……? そんな男……」
知るもんか、おれきいたこともねえよ――と、銀ちゃんの本名を知らない京吉は、寄ってきた芳子へ、わざとらしい背中を向けて、そしてカラ子とうなずき合った眼を、ちらとスリの方へ光らせていた。
日頃の京吉は、友達の坂野よりも、むしろ細君の芳子の方へ、ペラペラと冗談口を利いていた。口は悪いが、しかし、それが一種の愛嬌になっていて、芳子も京吉がアパートへ遊びに来ると、何となく気がまぎれるのだった。が、その京吉の今日のこの不愛想さは一体どうしたことであろう。
芳子は取りつく島のない想いの底に、何か後ろめたい気持を、ひやりと覗きながら、
「銀ちゃんのことよ。グッドモーニングの……」
われにもあらず、赧くなっていた。
「おれ知らねえよ」
「あんた、銀ちゃんと会うて来たんじゃな……?」
「おれ知らねえよ」
すねたように、うそぶいている言い方で、芳子には、京吉が今まで銀ちゃんと会うていたらしいと、判った。もっとも、さっき京吉が、
「ひでえキャッキャッだ」
と、言った途端に、芳子にはピンと来ていたのである「キャッキャッ」というものは、銀ちゃんの口癖であり、その言葉が今京吉の口から出るのは、つい今のさきまで、会うていた証拠だ。
どこで会うていたのか。芳子は、半時間ほど前に祇園荘へ電話をかけて、京吉を呼び出したことを、想い出した。京吉は祇園荘でマージャンをしていたにちがいない。そして、その相手は、もしかしたら銀ちゃんだったかも知れない。いや、そうにちがいあるまい。銀ちゃんは、まだ祇園荘にいるだろうか。
「ちょっと電話おかし下さいません……?」
芳子はいきなり夏子にそう言って、祇園荘へ電話を掛けた。
自動式ゆえ、どこへ掛けているのか、はじめはまるで見当がつかなかったが、
「もしもし、祇園荘さん……? そちらに……」
という芳子の言い方で、すぐそれと判った――途端に、京吉は、
「あれッ、こりゃいけねえ」
と、驚いて、芳子の言葉をさえぎるように、
「――だめ、だめ! いま掛けちゃいけねえよ。祇園荘、だれもいねえよ。いねえッたら!」
坂野もいるんだとは言いかねた見えすいた嘘でごまかしていると、
「京ちゃん、邪魔しないでよ」
京吉まで自分を銀ちゃんに会わすまいとするのかと、芳子はもう邪推のキンキンした声であった。
その時、例のスリが急に立ち上って、勘定を払うと、セントルイスを出て行こうとした。
「兄ちゃん!」
カラ子はじれったそうに、京吉の袖を引いた。
四
カラ子にうながされて、京吉はすぐそのスリのあとをつけて出ようと思ったが、しかし、坂野の細君の芳子の方へ、気は取られた。
放って置けば、芳子は銀ちゃんに電話を掛けるだろう。しかし、銀ちゃんの傍には今坂野がいる筈だ。芳子から銀ちゃんへ電話が掛ったことを、もし坂野がその場で知ったら、どんな波瀾が起きるか知れたものではない。よしんば、坂野が気づかなくても、銀ちゃんは困るだろうし、だいいち、京吉の気持としても、昨日までの亭主と情夫がいる場所へ、女が電話を掛けるという光景を、だまって見ているにしのびなかった。何かいやアーな気持だ。
「だめッたらだめだ!」
よせッと、京吉はいきなり、芳子の手から受話機をひったくって、ガシャンと切ってしまった。芳子は真青になった。
「気ちがいッ!」
「おれ気ちがいなら、おめえはキャッキャッだ!」
「…………」
芳子は肩をふるわせて、京吉を睨みつけていた。半泣き
前へ
次へ
全23ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング