舞妓のように言って、出て行った。
 そして、管理室の横を通り掛ると、
「……木崎さん、お留守ですわよウ!」
 と、はすっぱなおシンの声が聴えていた。苦笑しながら、京吉は玄関を出て行ったが、ふと立ち停ると聴き耳がピンと立った。
「――盗難……? あ、写真機ですか。あ、それでしたら、昨夜たしか……」
 おシンがそう言いかけた時、京吉はいきなり管理室へはいって、おれにかせと、おシンの手から受話機を奪い取って、
「あ、もしもし。何でしたっけね」
「あなたは……?」
 電話の声はいかにも口髭が生えていた。
「僕ですか。えーと……」
 にやりと笑って、
「――事務所の者です。今出てました女中は一寸頭のゼンマイがゆるんでますので、僕が代りました」
 おシンに背中をどやしつけられながら、京吉は肚の中でケッケッと笑い声を立てていた。
「木崎さんは……」
「留守のようです」
「昨夜、あなたン所で盗難があったでしょう……?」
「はてね」
「木崎さんの写真機が盗まれたはずですがね」
「へえーん。そんなはずはありませんがね。何にもきいておりませんがね」
 からかうという積りではなかった。ただ不良青年特有の本能で、犯罪というものを無意識にかばいたい気持が、京吉を電話口に立たせていたのであろう。
「チマ子という娘知りませんか。木崎さんとどんな関係があるんですか」
「チマ子……?」
 と、驚いてききかえしたが、さりげなく、
「――さア一向に……。ところで、何かあったんですか。チマ子……という娘……」
「いや、べつに……。御面倒でした」
「あ、もしもし……」
 しかし、電話は切れていた。京吉は受話器を掛けて、おシンにきいた。
「昨夜何かあったの……?」
「木崎さんのライカがなくなったのよう」
「誰が……?」
「盗んだのか、木崎さん何とも言わないわ。警察へ届けないのよ」
「へえーん。チマ子が盗んだのか」
「チマ子、チマ子って、一体誰なの……? あんた知ってるの……?」
「いや、べつに……。おれ知るもンか」
 京吉は狼狽気味であった。

      七

 ちょうどその時、表で待ちくたびれていた靴磨きの娘が、
「兄ちゃん、まだア……? はよ行こう!」
 と、管理室へはいって来たのは、京吉にはもっけの幸いだった。
「よっしゃ。行こう」
 行きかけて、ふと振り向くと、京吉の右の掌が、
「――おシンちゃん、おめえ、これだろう……?」
 と、腹の上に半円を描いた。
「京ちゃん、判るの……?」
 おシンはびっくりしたような眼を、くるくる廻していた。誰にも勘づかれなかったのにと、若いくせに女の体に敏感な京吉の眼が、気味悪くもあり、頼もしくもあった。
「困ってンだろう……?」
「はばかりさま。ちゃアんと父親は……」
「あるのよ」――と言いたかったが、誰だか判らず、おシンは坂野の細君にだけは、ひそかに打ち明けていた。坂野の細君もどうやらそれらしかった。祇園の方に、簡単に手術してくれる医者があるらしく、紹介してやると坂野の細君は言っていた。細君もおろす肚だったのだ。ところが、昨夜逃げてしまったので、おシンはもう諦めていた。
「月が早けりゃ、注射一本でも平チャラだよ。坂野さんに打って貰ったらいいよ。ねえ、おシンちゃん。そうしろよ」
 坂野さんは注射薬なら何でも持っているからと、言って、京吉は、
「京ちゃん、たまにいらっしゃいよ」
 おシンのゲタゲタした笑い声を背中にきいて、清閑荘を出て行った。
 チマ子のことは少しは気になっていたが、しかし、もう一度坂野の部屋へ戻って、木崎から事情をきこうという気になれなかったのは、
「おれの知ったこったねえや。どうだっていいや」
 という気まぐれな無関心であった。こまかく神経が働きながら、京吉にはどこか粗雑な投げやりがつきまとっていた。
 そのくせ、靴磨きの娘が、
「兄ちゃん、あたいもう兄ちゃんが出て来えへんと思って、心配してたンえ」
 と言いながら、いそいそとぶら下って来た小さな手の触感には、敏感だった。
 十二歳でありながら、京吉がこれまで触れて来たどの女の手よりも、ザラザラと荒れていたのだ。それがこの青年のわずかに残っている無垢な心を温めた。
「お前、東京生れだろう……?」
「うん。あたいコビキ町で生れたのよ。あたいのお家煙草屋。あたいの学校、六代目と同じよ。銀座へ歩いて行けたわ」
「田舎へ行くより、東京の方がいいだろう。やっぱし東京へ行こう」
「うん。こんな汚い恰好で銀座歩くのンいやだけど、兄ちゃんと一緒だったら、いいわ」
 高台寺の道を抜けて、円山の音楽堂の横を交番の近くまで来た時、京吉は石段下の方から登って来た若い女の姿を見て、おやっと立ち停った。

      八

 占領軍の家族であろう。日射しをよけるための真赤なネッカチーフで、頭を包んだ二人の女が、その女の前でジープを停めて、話し掛けていた。
 写真を撮らせてくれと頼んでいるらしい。女は困って、半泣きの顔で、ノーノーと手を振っている。
 コバルト色の無地のワンピースが清楚に似合う垢ぬけた容姿は、いかにも占領軍の家族が撮りたくなるくらい、美しかったが、しかし足には切れた草履をはいていた。
 図書館や病院で貸してくれるあの冷めし草履だ。その草履のために、写されることをいやがっているのだろうか。
 しかし、京吉は、その女がなぜそんな草履をはいているのだろうと、考える余裕もなかった。
 いや、眼にもはいらなかった。
「あ、陽子だ!」
 と思いがけぬ偶然に足をすくわれていたが、しかし、偶然といえば、その時、陽子が写真をうつされることに気を取られていなかったとしたら、陽子も京吉に気がついていたかも知れない。しかし、偶然は、陽子の視線を京吉から外してしまった。
 そして、更に偶然といえば――偶然というものは続きだすと、切りがないものだから――京吉が陽子の傍へ行こうとした途端、
「おい、君!」
 と、交番所の巡査に呼び停められた。
「何ですかね……?」
「一寸来たまえ! お前も来い!」
 巡査は京吉と靴磨きの娘を、交番所の中へ連れてはいった。
 なぜ呼びとめられたのか、京吉はわけが判らず、むっとして、
「何か用ですか」
「名前は……?」
「矢木沢京吉!」
「年は……?」
「二十三歳」
「職業は……?」
「ルンペン」
「何をして食べとる……?」
「居候」
「その娘は、お前の何だ……?」
「…………」
「なぜ答えぬ」
「お前といわれては、答えられん!」
「ふーむ。その娘は君の何だ……?」
「妹です」
「職業は……?」
「見れば判るでしょう……? 靴磨きです」
 京吉はそう言いながら、陽子の方を見た。陽子は結局写されたらしい。そして、二言、三言、占領軍の家族と言葉をかわしたかと思うと、彼女たちのジープに乗った。
「あ、いけねえ!」
 今のうちに掴まえなくっちゃと、思わずかけ出そうとしたが、
「どこへ行くんだ……?」
 巡査の手はいきなり京吉の腕を掴んだ。
 やがて、陽子を乗せたジープは、交番所の横を軽快な響きを立てて走って行った。


    鳩

      一

 留置場では、釈放されて出て行く者を「鳩」という。
 陽子はチマ子が予言した通り、一晩留置されただけで、鳩になった。
 ブラックガールの嫌疑で検挙されたのだから、ひとにも言えぬ恥かしい取調べを受けたのだが、処女と判ればもう疑いの余地はなかったのだ。
 恥かしい想いをしたことで、陽子は泣けもしない気持だった。それに、なお困ったことには、靴がなかった。木文字章三に見つけられた以上、むろん田村へは取りに行けなかった。アパートへ電話して警察まで靴を持って来て貰うことも一応考えたが、事情を説明するのがいやだった。ありていに事情を打ち明ければ、かえってあらぬ疑いを掛けられるようなものだから、十番館の朋輩にも頼めない。
 こんな時、頼りになる茉莉は死んでしまっている。結局、頼めるのは京吉ひとりだった。京吉だったら、田村へ行ったことは知っているし、気軽にひきうけてくれそうだし、それに、靴を頼むことでかえって昨夜の清潔さの証明にもなるわけだと、警察の電話を借りてセントルイスへ電話してみた。
 いなかった。もう一度掛けるから、もし京吉が来たら待って貰っていてくれと頼んで置いて、十分ばかしして、また掛けてみると、
「京ちゃん、たった今帰りましてよ。ことづけ……? しましたわ。でも、電話が掛って来たら、もう京都にいないとそう言って置いてくれって、女の子と出て行きましたわ。おほほ……」
 けたたましい笑い声は、セントルイスのマダムの夏子の癖であったが、陽子はそんなことは知らずあざ笑われたように思った。
 電話が掛かることを承知していながら、わざと「女の子」と出てしまうなんて、ばかにされたような気がした。
「いいわ」
 もう京ちゃんなんかと二度と口をきくものか、靴なんかどうでもいい、はだしで歩く――と、陽子は真青になって警察を飛び出しかけたが、しかし、まさかはだしで歩けない。警察の小使が草履を貸してくれたので、それをはいて、出ると、その足ですぐ木崎を訪ねることにした。
 茉莉のアパートへも寄らなかったのは、チマ子に頼まれた用事を少しでも早く果さねばと思ったからであった。もっとも、木崎には陽子自身も会わねばならぬ用事があった。
 ところが円山公園まで来ると、占領軍の家族から写真を撮らせてくれと言われた。
「あたしは昨夜から写真ばっかり撮られている」
 悲しい偶然だと呟きながら、改めて草履ばきのみじめさに赧くなって、
「ノーノー。アイム・ソリイー。エキュスキューズ・ミイ」
 ブロークンの英語を使って断ろうとしたが、結局写された。が、その代り、彼等はお礼の意味で、ジープで送ってやろうと言ってくれた。
 陽子は草履ばきで歩くみじめさからやっと救われた想いで、ジープに乗った。そして、そんな一寸した騒ぎのおかげで、到頭交番所の中にいる京吉には気がつかなかった。
 しかし、気がついても声を掛けたかどうか。――ジープはやがて清閑荘の前に着いた。

      二

 自動車を降りようとした時、陽子は、
「あなた、ダンス出来る……?」
 ときかれて、うなずくと、
「じゃ、こんどの日曜日、パーティに来ません……?」
 自動車のマダムたちは、陽子が気に入ったらしかった。ブロークンの英語が喋れるという点も彼女らには珍らしかったのであろう。
「ありがとう。もし行けましたら……」
 辞退のつもりで陽子は言ったのだ、が彼女らには、承諾の意味に聴えたらしく、ここへアドレスを書けと、手帳を出された。
「ノー・サンキュウ!」
 と、はっきり断るには、陽子は余りに日本人であった。とにかく、アパートの所を書いて渡すと、
「こんどの日曜日、夕方の五時に、このアドレスの所へ、自動車で迎えに行きます。よくって……?」
「ありがとう」
 わざわざ送っていただいて――と、陽子が車を降りながら言ったその言葉は、パーティーへ招待されたことへの感謝の「ありがとう」にもとれて、それで約束出来たのも同然だった。
 そよ風の吹く松林の道を、自動車は風のように下って行った。
 赤いネッカチーフを巻いた頭がふり向いて、秋の日射しの中に振られている血色のよい手が見えなくなるまで、陽子も手を振っていたが、おずおずとした振り方しか陽子は出来なかった。ちょうど陽子の立っている所は、清閑荘の建物に太陽の光線がさえぎられて、日かげになっていたが、陽子の心もふと翳っていた。
 陽子は十番館へはいる時、姓はかくしたが、名前は本名をそのまま使ったくらい、自分の持っているものの中で、陽子という名が一番好きだった。明るく陽気に、太陽の光の下で生きるという人間本然の憧れを、自分の名は象徴しているのだと、思っていた。が、今、自動車に乗っているアメリカの女性たちの屈託のない明るさを見ると、明るいとか陽気にとか、太陽の光の下で――などという形容詞が、うかつに使えぬような気がして、ふと思えば、自分もまた、この陰欝な清閑荘の建物にふさわしい人
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