惨で苦悩の深いものです。あなたの胸中をお察しします。同時に奥さんについても一概に不貞の妻としてかたづけてしまうのは、気の毒のように思います。
私どもは出征者の遺家族の生活というものを知りすぎるほど知っています。もし奥さんが前非を悔いておるなら許してあげて、再び平和な家庭をつくって下さい。
ことにお子さんたちの将来を考えるとき、私はそれを希望します。それにしても相手の巡査はけしからん奴です。遺家族とあれば一層保護を加うべき任にありながら、色と慾の二筋道をかけるなど実に言語道断です。
その男の勤務していた警察署に頼んで探し出し、厳重な処置をして貰って下さい」
読み終ると、坂野はいきなり、
「ばか野郎!」
とどなった。
二
その時、
「何が、ばか野郎なんだい……?」
と、にやにや笑いながら、木崎がドアをあけてはいって来た。赤い眼をしばだたいているのは、昨夜坂野に打って貰ったヒロポンが効きすぎて、眠れなかったのであろう。
「聴えましたか。――いや、なに、おたくに言ったわけじゃないです。一寸これ見て下さい。ひでえもんですよ」
坂野は新聞の身上相談欄を見せた。木崎はざっと眼を通して、
「なるほど、こりゃひどい!」
「そうでしょう。怒ったね、あたしゃ。全くこりゃ怒りもんでさアね。とんがらかる理由がざっと数えて四つはありまさアね。ひでえ話だよ、こいつア……」
昔漫談をやっていただけに、真剣に喋っていても、坂野の喋り方は何か軽佻じみていた。
「まず第一に、よりによって、昨日の今日、こんな身上相談が出ているなんてね。罪ですよ。罪な野郎だよ、全く……。あたしゃアね、木崎さん、これを読んだ途端、女房の奴、てっきり男をこしらえて逃げやがったなと、ピンと来ましたよ。いや、それに違えねえ。ヒロポンだけで逃げるもんですか。だいたい、あたしと女の馴れ染めはね、あたしがまだ小屋に出ていた時分でしてね、え、へ、へ……。女房もその小屋で、ハッチャッチャッ……てね、足をあげて、踊ってましてね。つまり、踊り子。あたしゃ、これでも音楽家ですからね。先生ッ! ですよ。ねえ、先生ッ! と来やがった。徹夜稽古の晩にね、あたし眠いわと来やがった」
そこで坂野は、ぶるぶるッと肩をふるわせて、もはや喜劇役者の身振りであった。
「――待ってましたッてとこですね。しかし、あたしゃ、眠いのかい、じゃ、一緒に寝ンねしようや――なんて言わない。夜が更けりゃ泥棒だって眠いや。辛抱、辛抱! 今夜のうちにあげてしまわなくっちゃ、明日の初日は開かんよ――ってね、実にこれ芸人の真随でさアね。すると、奴さん、眠くってたまらないのよ、ヒロポン打って頂戴! よし来た、むっちりした柔い白い腕へプスリ……、これがそもそも馴れ染めで、ヒロポンが取り持つ縁でさアね」
「じゃ、あんたのヒロポンは承知の上じゃないか」
「そうなんですよ。今更ヒロポンがどうの、こうの……。何言ってやがんだい。男が出来て逃げたに違えねえですよ。どこの馬の骨か知らねえが、ひでえ男だ。まるで、この警官でさアね」
と、新聞を指して、
「――捨てられて、孕まされて、ポテ腹つき出して、堪忍どっせと帰って来たって、あたしゃ、承知しませんよ」
「しかし、そりゃ一寸気を廻し過ぎじゃないかな」
「いや。てっきりでさア。賭けてもいいね」
百パーセントそれでさアねと、坂野が言った時、アパートの階段を登る足音が、
「見よ、東海の朝帰り……」
という鼻歌と一緒に聴えて来た。
三
「坂野さん」
京吉は部屋の前まで来ると、馴々しい声を出した。
「――はいってもいい……?」
「あ、京ちゃんか」
それで、はいれと言ったのも同じだった。
「はいりますよ。うっかり、あけられんからね、この部屋」
京吉はドアを一寸あけて、首だけのそっと入れると、
「――おや、お客さん……?」
と、言いながら、はいって来た。そして、木崎に向って、ピョコンと頭を下げた。木崎はおや見たような顔だなと思いながら、挨拶をかえした。
「人ぎきの悪いことを言うなよ。――第一覗かれなくっても、もう手遅れでさアね」
逃げちゃったよと、坂野はケラケラと笑ったが、さすがに虚ろな響きだった。
「へえーん」
「京ちゃん、どう思う。女房のやつ男が出来たと、あたしゃ思うんだが、どうかね。おたくの観察は……」
「そりゃ、てっきりですよ」
京吉は香車で歩を払うように、簡単に言った。
「――女って、だらしがねえからな。いつ逃げたんだ。昨夜……? ふーん、そうだろうと思った。土曜日だからね」
土曜の夜は女のみだれる晩だという、藪から棒の京吉の意見の底には、古綿を千切って捨てるような、苛立たしいわびしさがあった。
「そうか。おたくもそう思うか」
坂野はいきなり京吉と握手した。木崎はふと顔をそむけて、自分だけがひとり女の弁護にまわりたい気になっている矛盾を、煙草のけむりと一緒に吐きだしていた。しかし、坂野が、
「ねえ、木崎さん、あたしゃ、絶対許しませんよ。許してやれなんて、身上相談の解答こそ、まさに許しがたいと思いませんかね」
と、言うと、はや木崎はいつもの木崎であった。
「いや、こんな解答が平気で出来るという点が、身上相談担当の重要な資格になるんだよ。いちいち、質問者の心理の底にまではいっておれば、結局解答者は失格さ。警察へ届けて姦夫を処罰して貰え、女房は許してやれ。――こんなお座なりの解決で気が済むなら、誰も身上相談欄へ手紙を出すもんかね。財布を落しても、今時、警察へ届けろなんて、月並みなことを言う奴はいないよ。姦夫を処罰して貰ったって、悩みは残るさ。前非を悔いているから、許してやれ――か。ふん。学問が出来て、社会的地位があっても人間のことは、何にも判ってないんだ。ねえ、君、そうだろう」
木崎は京吉の方を向いた。
「おれ、そんなことどうだっていいや」
京吉は舌の先についた煙草の滓をペッと吐き捨てて、
「それより、坂野さん、おれにヒロポン打ってくれ。それで来たんだよ」
と、腕を差し出した。
四
「ヒロポン……? よし来た。ここン所坂野医院大繁昌だね」
坂野はにやりと木崎の顔を見ながら、ケースの中からヒロポンのアンプルを取り出し、アンプル・カッターを当てて廻すと、まるで千切り取るように二つに割った。ポンと小気味のよいその音は逃げて行った細君へ投げつける虚ろな挑戦の響きの高さに冴えていた。
興奮剤のヒロポンは、劇薬であり、心臓や神経に悪影響があるので、注射するたびに寿命を縮めているようなものであった。しかし、不健全なものへ、悪いと知りつつ、かえって惹きつけられて行くのがマニヤの自虐性であり、当然アンプルを割る音は頽廃の響きに濁る筈だのに、ふと真空の虚ろに澄んでいるのは、頽廃の倫理のようでもあった。
だから、坂野はうっとりとその余韻をたのしみながら、
「――京ちゃんもいよいよわが党と来たかね。毎日でも打ってやるよ」
「いや、今日だけでいいよ。注射、痛いだろう……? おれ趣味じゃねえや。痛くないやつやってくれよ。ねえ、たのむよ。ねえ、痛いんだろう。しかし、痛くってもいいや。今日は特別だから。麻雀に勝てればおれ我慢するよ。しかし、あんまり痛いの、おれいやだぜ」
「大丈夫だ。何でも痛いのははじめのうちでさアね。麻雀するのかい」
「うん。昨日寝てないからね。下手すると負けるからね。負けたっていいが、しかし、負けるとおれ東京へ行けないからね。――坂野さん、本当に痛くないね……? あ、チッチッ……」
針がはいったのか、京吉は顔をしかめた。坂野は注射器のポンプを押しながら、
「――東京へ行く……?」
「うん。おれもう京都がいやになったんだよ。坂野さん、金ないだろう。貸しちゃくれんだろう……? だから、麻雀で旅費つくるんだよ」
田村へ帰って、ママに無心すれば、金は出来ぬこともなかったが、陽子が昨夜泊ったのかと思えば、田村へ帰る気はせず、それにもともと嫌いだったママのことが今は田村と共に虫酸が走り、顔を見るのもいやだった。そんな気持が、京吉の放浪の決心を少し強めたのであろう。麻雀にはダンス以上に自信はあったし、それで儲けた金を旅費にしようとセントルイスを出た途端思いついてみると、何かサバサバと気持がよかった。
だから、靴磨きの娘を、アパートの入口に待たして置いて、ホールで顔馴染みの坂野をたずねて来たのだった。京吉の行く麻雀屋は祇園の花見小路にあり、アパートからは近かった。
「どうだ、痛くないだろう」
坂野は針を抜き取ると、ペタペタと京吉の腕をたたいた。
「痛いや。そら見ろ! 血が出てやがるぜ」
「血が出て痛けりゃ、鼻血が出せるか。――どうです、木崎さん。おたくも……」
「やって貰おうかな。眠気ざましに……」
木崎の腕に針がはいった時、
「木崎さアン、お電話ア……」
女中の声が廊下で聴えた。
五
名前は清閑荘だが、このアパートはガタガタの安普請で、濡雑巾のように薄汚なかった。おまけに一日中喧騒を極めて、猥雑な空気に濁っていた。
そんな清閑荘の感じを一番よく代表しているのは、おシンというその女中で、ずんぐりと背が低く「ガタガタのミシン」とかお化けとか綽名がついているくらい醜かった。声も醜く、押しつぶされたように荒れていたのは、一日中流行歌をうたっているせいばかりでなく、この女中の生活の荒れでもあった。人間はよかったが品行はわるく、木崎の名を「キジャキ」と発音して、木崎を見る眼がいつも熱く燃えているので、木崎は辟易していた。
おシンはアパートのたれをも好いたが、ことに木崎を好いていたようだった。が、それも相手にする者はいない――ということになっていたが、しかし、おシンはいつも女中部屋のドアをあけはなして、あらわな寝姿を見せながら寝た。そして、酔っぱらった誰かが帰って来て、おシンに近づいて、いたずらしかけても、おシンはただ鼾をとめるだけで、眼はあけようとはせず、翌日はけろりとした顔であった。十九歳だという。
「あら、いないわ。――木崎さアん」
おシンは木崎の部屋の戸をあけたらしい。
「ここだア!」
坂野がどなると、おシンはバタバタとはいって来て、
「あら、また注射。――木崎さん、お電話ア」
「今、手が離せんよ」
注射器のポンプを押しながら、坂野が代って答えた。
「だって、警察からよ」
「警察……?」
なんの用事だろうと、木崎は咄嗟に考えたが、思い当らなかった。昨夜チマ子がライカを盗んで逃げた――そのことに関係した用件だとは、気がつかなかった。
「今、手が離せんといえ」
坂野はわざとゆっくりポンプを押していた。
「だって、警察よ」
「じゃ、留守だと言っとけ!」
「本当にそう言ってもいいの」
「警察もへちまもあるもんか」
坂野は身上相談欄で悪徳巡査のことを読んでたので、まるで自分の細君が巡査と逃げたような錯覚を起していたせいか、ふと警察への得体の知れぬ反撥を感じていたようだった。
「――用事があれば、向うからやって来まさアね。ね、木崎さん。悪いことさえしなきゃア、警察なンて、自転車の鑑札以外に用はねえや。――断っちゃえ。留守だよ、木崎三郎旦那は留守でござんす」
「あんたに言ってないわよ。木崎さん早く行ってよ。あたし叱られるわよ」
しかし、坂野がなかなか針を抜かないので、おシンは、
「――知らないよ。叱られたって」
そう言いながら、バタバタと尻を振って出て行った。
六
「あ、一寸、おシンちゃん!」
坂野のふざけた調子を面白がっていた木崎も、さすがに少しは気になって、おシンを呼び戻そうとした時は、おシンはもうチャラチャラと階段を降りていた。
京吉はそんな容子をにやにや見ていたが、急に、
「おれ帰るよ。ヒロポンもりもり効いてやンね。辛抱たまりやせんワ!」
と、起ち上ると、はや麻雀のパイの、得意の青の清一荘(チンイチ)の頭に浮んだ構図にせき立てられるように、
「――さいなアら! 御免やアす」
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