陽子の玄関の声をきいた時、章三はなぜかはっとした。
しかし、なぜはっとしたのか、その理由はあとで判ったが、その時は判らなかった。いや、自分がはっとしたことすら、気づいていたかどうか。
「聴いたような声だな」
という、しびれるような懐しさも、はっきり意識の上へは浮び上っていなかったようだ。
「乗竹というと、あの乗竹……か」
侯爵の乗竹とちがうかと、章三はきいた。そうよと、貴子はすかさずいったが、
「侯爵よ。侯爵の若様よ。いやな奴よ」
と、畳みかける口調がふとぎこちなかった。
「来てるのか」
「いやな奴よ」
「いやな奴テ、どないいやな奴っちゃ……?」
「へんな女なんか、連れ込んで……。今来たのがそうよ。男は三十過ぎなくっちゃ、だめね」
自分でもそれと気がつかぬ女の本能から、貴子は章三の手前、春隆をやっつけていたが、しかしまんざら心にもないことをいっているわけでもなかった。嘘の中に軽い嫉妬の実感はあったのだ。もっとも貴子は春隆をそんなに好いているわけでもなかった。真底から男に惚れるには、余りに惚れっぽいのだ。つまり、簡単な浮気の気持――だが、春隆には大した魅力を感じているわけでもな
前へ
次へ
全221ページ中54ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング