なかった。
 木崎三郎も気がつかなかった。
 木崎は肉眼がカメラのレンズに化してしまったかと、思われるくらい、視覚神経の病的に鋭いカメラマンであり、ことにグラフ雑誌から頼まれたダンスホール風景の写真を撮りに、三晩もつづけて十番館へ足を運んでいるのだから、ホールの床の上のこおろぎという構図には敏感に神経が動く筈だのに、やはり見逃してしまったのは、丁度その時、木崎は二階の喫茶室にいたからであろうか、それとも……。
 喫茶室からは一眼でホールの隅から隅まで見下ろせたが、しかし、こおろぎまでは視力が届かない。とはいうものの、よしんばそれが出来ても、少くともその時の木崎の眼にははいらなかったに違いない。
 なぜなら、木崎の視線はひたすら、辻陽子というダンサーの姿態や顔の動きを追うていたのだ。憑かれた眼にはそれだけしか見えない。
 しかも、それが今夜で三晩も執拗につづいているのだ。最初の晩辻陽子を一眼見て、なぜかどきんとした途端に、もう木崎の眼は、
「よし。このダンサーだ。この女を撮ろう」
 と、たちまちカメラのレンズに化してしまったが、しかし、非情のレンズにしては、何か熱っぽく燃えて、夜光虫のよ
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