、空しく探す眼付になりながら、うしろからつけて来るらしいカラ子のことは瞬間忘れていた。
「いない」
 しかし、もしかしたら中之島公園にいるかも知れないという藁のようなはかない希望は、北山の足を中之島公園へ連れて行った。
 北山は公園の中をぐるぐると歩きまわった。白粉をどんなに濃く塗ってもかくし切れないアザは、どの娘の眼の下にも見当らなかった。
 ぐるぐると歩きながら、北山は孤独な自分の足音をきいていた。気の遠くなるようなさびしさに足をすくわれて、北山は急に立ち停った。そして振り向いた。カラ子が立っていた。
「なぜおれをつけるんだ……?」
 北山は自分でも不思議なくらい荒々しい力で、いきなりカラ子の肩を掴んだ。その時、パーン、パーンと銃声が聴えた。

      八

「花火だな」
 と、北山はその銃声を遠い想いで聴いた。中之島公園は真中を淀川が流れ、花火を連想させる。げんに二月ほど前、この公園で水都祭が催され、お祭り好きがお祭り騒ぎの花火を揚げたのだった。だから、銃声とは聴かなかった。
「お、お、お前、京都から、お、お、おれをつけて来たんだろう」
 なぜつけた――と、北山は昂奮に吃りながら、狂暴な力でカラ子の肩を掴んでいた。
「…………」
 カラ子は咄嗟に返事が出来なかった。空襲以来こわい目には随分会うて来たし、こわい人間にも会うて来たが、しかし、北山の表情ほどこわいものを見るのは、生れてはじめてだった。声も出ず、カラ子はぶるぶるふるえていた。
「言ってみろ!」
 北山は血走った眼で睨みつけながら、カラ子の肩をゆすぶった。ゆすぶられて、カラ子はふっと空を見た。降るような星空に、星が流れ、あえかな尾を引いてすっと消えた拍子に、カラ子は京吉を想い出した。
「兄ちゃん、あたい、こんなこわい眼に会うてるのよ」
 何も中之島公園までつけて来なくても、途中交番の前を通った時、かけ込んで、あいつスリだと一言いえば、京吉の財布は戻った筈だった。が、交番というものには、やはり浮浪孤児らしい反撥があった。今日の昼間、円山公園の交番でもいやな想いをさせられたのだ。
 それと、一つには、警官のたすけを借りずに、京吉へスリを渡したいという子供らしい虚栄心もあった。スリの落ちつく場所を見届けて、それを京吉に知らせる時の喜びが、カラ子をいつまでも尾行させていたのだろう。
「言え! 言わんのか! こいつ! なぜ、おれをつけた……?」
 日頃大きな声も出せぬくらい大人しい北山には、ついぞこれまでなかった狂暴なその表情は怒りに逆上しているように見えたが、しかし、それは憤怒というより、むしろ北山の恐怖から出たものだった。
「こいつはおれがスリをしたことを知ってやがる!」
 という予感が、北山を逆上させていたのだろう。臆病者の方がいざという時には狂暴な行動をやりがちなのだ。
「――お前、何もかも知っているんだろう。畜生!」
 北山の手がカラ子の肩から首へ動いて、ぎゅっと力がはいりかけた途端、パーン、パーン……再び銃声が聴えて、なだれを打ったように、群衆がかけ出して来た。
「脱走だッ! 脱走だッ!」
「おい、こっちへ逃げろ!」
 近くの大阪拘置所を破って脱走して来た一団であった。銃声は守衛が威嚇的に射ったものだろう。誰かが川へ飛び込んだ。
 北山ははっとわれにかえると、その一団にまじってぱっとかけ出して行った。北山の狂暴な血は一時に引き、野卑な顔はただ狼狽の色に歪んでいた。

      九

 逃げろ、逃げろという声は、拘置所を脱走して来た未決囚の一団が、良心の囁きに傾きがちな不安な耳へ、ぶっつける群衆心理の叫び声であったが、北山の耳は、
「お前も逃げろ!」
 と、聴いたのだ。だから、その一団にまぎれ込んで駈け出しながら、北山は自分もまた囚人であるかのような錯覚に、青ざめていた。
 その夜、脱走した囚人は、あとで警察へ報告されたリストが四度も訂正されたくらい故、その時は誰も正確には判らなかったが、ざっと数えて百名ぐらいはあったろう。それが三方に分れて逃げたらしく、中之島公園へ逃げて来た連中はざっと三十名ばかり、差入れの着物や洋服などのいわゆる私服を持たぬ青い官服の囚人姿の者がその大半だったので、一眼見るなり拘置所からの脱走者だと判った。
 その官服の青さは、月明りに照らされていたので、一層なまなましい不気味さに凄んで、悔恨の心のように北山の心に突きささったのだ。
「おれはスリのほかに、人殺しをしようと思ったのだ!」
 もう少しであの小娘を殺すところだった――と、もはや北山にとっては、中之島公園はあの闇の娘を拾ったなつかしい場所ではなかった。
「逃げろ、逃げろ!」
 中之島から逃げるんだ――と、北山もいつか囚人と同じ声を出して走りながら、あ、そうだ、こいつを持っていて
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