こりゃ面白くなって来よったぞ!」
と、その新聞広告を見ていた。
「某侯爵邸と書いとるが、こらてっきり乗竹侯爵のことにちがいない」
章三は偶然というものを信じていた。自分の事業家としての才能や、頭脳回転の速度や、闘志は無論信じていたが、それ以上に偶然を信じていたのだ。
爪楊枝けずり職人の家に生れたのは、偶然だ。そして、この偶然がやがてかずかずの偶然を呼んで、三十五歳の無名の青年実業家が、二十一年度の個人所得番付では、古い財閥の当主の上位を占めるという大きな偶然を作りだしたのだと、彼は思っていた。
「偶然に恵まれんような人間はあかん」
これが彼の持論だ。もっとも、考えようによっては、誰の一生も偶然の連続であろう。しかし、偶然に対する鈍感さと鋭敏さがあるわけだ。章三は絶えず偶然を感じ、それをキャッチして来たのである。しかもそれを自分にとっての必然に変えてしまうくらい、偶然を利用するのが巧かった。いや、利用するというより、偶然に賭けるのだ。そして、賭にはつねに勝って来た。幸運に恵まれた男だというわけだが、しかし、例えば爪楊枝職人の家に生れたという偶然を、結局幸運な偶然にしてしまうまでには、絶えず偶然の襟首を掴んで、それに自分を賭けるというスリルがくりかえされて来たのだ。自信はあったが、しかし、必ず勝つときまった賭にはスリルはない。
だから、章三にとって偶然を信ずるということは、自分は絶えず偶然によって試されて行く人間であり、しかもその時自分の頼るのは結局天よりも自分だけだということであろう。
例えば――、新聞は誰でも読む。新聞のない一日はユーモアや偶然のない一日より寂しいくらいだ。祇園のあるお茶屋では、抱えの舞妓に新聞を読むことを禁じた。彼女はパンツの中へ新聞をかくして、便所の中で読んだという。昔は若い娘が新聞を持って町を歩いている姿は殆んど見られなかったが、最近では夜の町角で佇む若い軽薄な背のずんぐりした娘でも、ハンドバッグと一緒に新聞をかかえている。猫も杓子も読むのだ。しかし、同じ新聞を同じ時にひらいても、一番さきに眼にはいるのが、同じ記事だとは限らず、某侯爵邸の売物の広告が何よりも先にぱッと眼にはいるのは、余ほどの偶然であろう。
しかも、この偶然を陽子、春隆、貴子、貴子の友達、東京行き……などという偶然に重ねてみると、もはや章三にはその売邸が乗竹侯爵邸以
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