院が、買い溜めの高価な薬品や機械や材料といっしょに空襲で焼けてしまったり、預金が封鎖されたりして、到頭友達と共同で喫茶店をひらくようになってからも、陰気に蘆屋の家に閉じこもって夫のことを考えている日が多かった。
 ところが、セントルイスへ時々やって来て、旦那を待ち合わせている先斗町の千代若という芸者が、焼け出されるまでは大阪の南地にいたというので、いろいろ大阪の戎橋附近の話をしているうちに、ああ、あの歯医者はんなら知ってますどころか、あての旦那はんどしたンや。
 えっと驚いてなおきくと、夫は千代若だけではなく、何人もの芸者や女給と関係があったという。千代若は簡単に捨てられたらしい。
「箒で有名どしたえ。ほんまに、こんなええ奥さんがいたはったのに……」
 夏子がもとの旦那の本妻だったと判ると、もう夏子の分までふんがいしている千代若の言葉をききながら、夏子は真青になっていたが、しかし、ターバンを巻くようになったのは、それから間もなくのことだ。
 千代若とも変な工合に親しくなり、蘆屋に帰る日もすくなく、急に笑い上戸になった……。
 京吉は笑い声の高い女がきらいだった。顔をしかめて、
「いつ掛ったんだい」
「気になるの。おほほ……。今より約五分前!」
 夏子は情報放送の真似をして、
「――でも、少ししてまた掛けるから、京ちゃん来たら、待って貰ってくれと必死の声で、言ってたわよ」

      七

「へえーん」
 京吉は小莫迦にしたような声を出していたが、やはり、陽子何の用事だろうと、胸はさわいでいた。
 京吉は陽子の身の上は何にも知らなかった。どこに住んでいるのかも知らなかった。陽子も京吉が田村に居候していることは知らなかった。十番館で一寸口を利くだけのつきあいでしかなかった。
 だから、セントルイスへ掛ければ、京吉がつかまると、陽子が知っていることすら、すでに京吉には不思議だった。むろん、これまで電話なぞ掛って来たためしはなかった。
 それだけに、意外なよろこびだと、胸が温まりかけたが、しかし、それでやに下るのはだらしがないと、京吉はピシャリと水を掛けた。
「昨日の今日じゃねえか。感じ悪いよ」
 夢がこわれたのだ。誰かと踊る時、いつもあごをぐっと引いて、心もち下唇を突き出しながら口を閉じている陽子の癖や、ほんのりと桜色に透けて見える肉の薄い耳から、生え下りへ掛けての、男
前へ 次へ
全111ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング